雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

2012-01-01から1年間の記事一覧

下軍校尉鮑鴻の最期

袁紹・曹操・淳于瓊を含む豪華メンバーでみんな大好きな西園八校尉。 霊帝が私財を投じて中平五年(188)八月に設立した。 同年十一月にその一員、下軍校尉の鮑鴻が同年四月に起きた汝南葛陂の黄巾反乱の討伐に差し向けられている。 んでその鮑鴻、下軍校尉…

漢末輔臣賛、陰脩

北海人雲子撰『漢末輔臣賛』十巻*1 『漢末輔臣賛』陰脩 少府識人、擢用俊秀、光明赫赫、賛陰少府 陰脩字元基、南陽新野人。蓋陰識之後也。漢末為潁川太守、挙五官掾張仲方正、察功曹鍾繇・主簿荀彧・主記掾張礼・賊曹掾杜祐・孝廉荀攸・計吏郭圖為吏。後為少…

『韓玄墓記』多分全文テキスト

清の汪応銓が長沙のバカ太守、韓玄の墓について書いた『韓玄墓記』というものがある。 ういっきーも韓玄の項で触れているので知ってる人も多いと思う。 全文テキストをhttp://www.cqvip.com/Read/Read.aspx?id=9538114で発掘したので、繁体化&日本語訳をす…

初平年間の揚州刺史

初平年間(190−193)の揚州刺史は陳瑀とか陳禕とか陳温とか陳陳しててよくわからない。なので少し整理してみる。 最初の章はただの記述の整理なので、正直読まなくて良いよ。 記述の整理 まず、『三国志』武帝紀・曹洪伝によると、初平元年(190)、曹操は徐…

『華芳墓誌』―華歆の曾孫華芳と太原王氏

1965年、北京で王浚の妻、華芳という人の墓が見つかった。 この墓は西晋永嘉元年(307年)に作られたもののようで墓から『華芳墓誌』とよばれる墓誌が出土した。 この華芳は華歆の曾孫であり、王浚は名門の太原王氏で『三国志』注にたびたび引用される『魏書…

碑と史書との整合性

『後漢書』本紀巻八、霊帝紀、中平五年条 益州黄巾馬相攻殺刺史郗儉,自稱天子,又寇巴郡,殺郡守趙部,益州從事賈龍撃相, 斬之。 中平五年六月、益州黄巾*1馬相が刺史の郤倹を殺し、天子を僭称した。また、巴郡に攻め込み、巴郡太守の趙部を殺した。益州従…

楊儀「費禕さんへ」

参考:http://www.daily.co.jp/newsflash/2012/06/20/0005149968.shtml 費禕さんへ 蜀漢軍の将軍、官吏、関係者を傷つける密告が相次いでいます。たくさんの暴露が行われ、蜀漢軍関係者を混乱させ、将軍、官吏を苦しませています。私は中軍師という立場で心…

段熲と段煨

昨日ツイートした話をリサイクル。環境と自分に優しい雲子である。 段熲と段煨って同姓だし、名前も微妙に似てて正直こんがらがるよね。 段熲は字を紀明、武威姑臧の人。 桓帝〜霊帝期に涼州の反乱鎮圧に活躍した。 同じく涼州で活躍し、字(あざな)に“明”…

段熲と涼州大乱

『後漢書』列伝第四十七、劉陶伝 是時天下日危,寇賊方熾,陶憂致崩亂,復上疏曰:「臣聞事之急者不能安言,心之痛者不能緩聲。竊見天下前遇張角之亂,後遭邊章之寇,每聞羽書告急之聲,心灼內熱,四體驚竦。今西羌逆類,私署將帥,皆多段熲時吏,曉習戰陳,…

益州の有力氏族(旧巴篇)

はじめに 『華陽国志』は県ごとにどのような一族が勢力をもっていたかを載せてくれてるよ! というわけで、表にしてみる。 今回は巴郡から分かれた巴郡・巴東郡・涪陵郡・巴西郡・宕渠郡だよ! あと漢中・蜀・南中があるから三回分の更新は稼げるぜ 有力豪族…

南中の四姓五子

史料 『華陽国志』巻四、南中志 移南中勁卒青羌萬餘家於蜀為五部無當無前號為飛軍分其羸弱配大姓雍婁爨焦孟量毛李為部曲置五部都尉號五子故南人言四姓五子也。 訳: 諸葛亮は南征後、南中の兵や青羌の一万余りの家を蜀に移住させ、五部・無当・無前という部…

霍峻の部曲

『三国志』巻四十一、霍峻伝、附霍弋伝 霍峻字仲邈,南郡枝江人也。兄篤,於鄉里合部曲數百人。篤卒,荊州牧劉表令峻攝其眾。表卒,峻率眾歸先主,先主以峻為中郎將。(略)子弋,字紹先,先主末年為太子舍人。(略)後為參軍庲降屯副貳都督,又轉護軍,統事…

『建康実録』を読んで呉の歴史を復習してみんとす。その2、孫堅〜孫策

はじめに まだエターナってないよ! そういえば言い忘れてたけど基本意訳だから、厳密じゃないよ。 これで誤訳してもおおかた誤訳じゃないよ意訳なんだよ!とごまかせる。 本題 太祖大皇帝の姓は孫、名は権、字は仲謀、呉郡富春の人である。その出自は周の武…

『建康実録』を読んで呉の歴史を復習してみんとす。先秦〜漢

はじめに 私は壊滅的に呉を知らない。 何してたかも、誰がいたかも。 知っているのは関羽の後ろを襲った♂ことくらい。 呉のイメージとしては「陸瑁ってなんで伝たってんだよ」って感じかな。 なので唐の許嵩による呉地方(建康)の通史チックな書物『建康実…

応劭(笑)

『後漢書』列伝巻四十八、応奉伝、附応劭 中平二年,漢陽賊邊章、韓遂與羌胡為寇,東侵三輔,時遣車騎將軍皇甫嵩西討之。嵩請發烏桓三千人。北軍中候鄒靖上言:「烏桓衆弱,宜開募鮮卑。」事下四府,大將軍掾韓卓議,以為「烏桓兵寡,而與鮮卑世為仇敵,若烏…

列子の来歴と王氏と傅氏

列子は春秋戦国時代の列御寇の著書とされるものである。 杞憂や朝三暮四の出典がこれである。 東晋の張湛が序文をつけた。この序には列子の来歴以外にも面白いことが載っている。 『列子』序 湛聞之先父。曰、吾先君與劉正與・傅穎根、皆王氏之甥也。竝少遊…

ちん○

体温三十八度の中、某氏*1から更新することを強いられたのでツイッターでも言ったことを再利用。 『後漢書』列伝第五十二、陳紀伝 (陳)紀字元方,亦以至紱稱。兄弟孝養,閨門廱和,後進之士皆推慕其風。及遭黨錮,發憤著書數萬言,號曰陳子。 陳群の父、陳…

黄忠と何進その2

だいぶ昔に書いた話。 何進の命で申屠蟠という人にに手紙を書いた黄忠が劉備軍の黄忠と同一人物ではないかという説。 http://d.hatena.ne.jp/chincho/20091008/1254995653 申屠蟠の同郡なのか何進の同郡なのか。 何進は申屠蟠の同郡の奚中郎を申屠蟠のもとに…

全三国文

全三国文は三国時代の人物の言論や著述の断片をいろいろな史書・類書から収集したものである。なおソース付き。 清の嚴可均によるもので、全上古三代秦漢三国六朝文の中の一部でもある。 Internet Archiveで読める。 どの巻に誰が収録されているかをここに記…

書物は焚書をいかに乗り越えたか

「焚書坑儒」という四字熟語がある。「焚書」は書物を焼くこと、「坑儒」は儒者を穴埋めにすること。 秦の始皇帝が思想統一のために行った政策が由来である。 この言葉は現代日本においても人口に膾炙しており、いまだに表現規制や思想弾圧が起きた際に目に…

もうネタ尽き果てた><

ので、更新頻度落としてちょっとインプット時期にはいります。 いいネタあったら教えてね! いつも単発ネタばかりで、広い視野の記事がかけてない。 そしてネタ紹介ばかりで、思考という物が欠けている。 1つの記事にもう少し時間をかけてみたいと思う。

内川コピペ改変「姜維コピペ」

参考: wikiwiki.jp 要害、漢中で迎えた鍾会戦 関城守将蒋舒が開城降伏、援軍も姿を見せず惨敗だった 漢中に響く兵士のため息、どこからか聞こえる「今年で滅亡だな」の声 無言で退き始める諸将の中、壮年の大将軍姜維は独り剣閣で泣いていた 丞相の北伐で手…

[百度百科]訳出百度百科。蜀漢兵制。

はじめに 百度百科に「蜀漢兵制」なる面白い項目があったので訳出。誤訳多々あると思いますがお許しください! なお、この項の信憑性などは不明。話半分で読んでね。 各章タイトルは雲子による。 蜀漢兵制概略 蜀漢の中央軍は軍師将軍を一人から二人置き、国…

東州人居住区と劉焉&劉璋の兵制

『華陽国志』巻三 蜀志 其大江,自湔堰下至犍為有五津:始曰白華津;二曰里津;三曰江首津;四曰渉頭津,劉璋時,召東州民居此,改曰東州頭;五曰江南津。 訳: 長江には湔水の堰から犍為に至るまでに五つの津(=渡し場)があった。始めの一つは白華津、二…

諸葛亮先生の来敏dis

『宋書』列伝第二十二 王微伝 諸葛孔明云:「來敏亂郡(群),過於孔文舉。」 諸葛亮は「来敏が衆を乱すことは孔融以上だ」と言ったらしい。 来敏伝を見てみると 『三国志』巻四十二 来敏伝 注引『諸葛亮集』 亮集有教曰:「將軍來敏對上官顯言『新人有何功…

張魯の殺した「漢使」とは何か&漢中太守蘇固についての妄言

きのうツイートした話を再利用。 『三国志』巻三十一 劉焉伝 張魯母始以鬼道,又有少容,常往來焉家,故焉遣魯為督義司馬,住漢中,斷絕谷閣,殺害漢使。焉上書言米賊斷道,不得復通,又託他事殺州中豪強王咸、李權等十餘人,以立威刑。 『三国志』の劉焉伝…

皇甫隆

『三国志』巻十六 倉慈伝 注引『魏略』 天水王遷,承代慈,雖循其迹,不能及也。金城趙基承遷後,復不如遷。至嘉平中,安定皇甫隆代基為太守。初,燉煌不甚曉田,常灌溉滀水,使極濡洽,然後乃耕。又不曉作耬犂,用水,及種,人牛功力既費,而收穀更少。隆到…

五斗米道と斬邪の剣

五斗米道に伝わるアイテム、斬邪の剣というものがあったという。 『古今図書集成』博物彙編神異典 神仙部 列傳 張道陵 所引『四川總志』 漢張道陵,初入蜀閬中。居鶴鳴山煉丹修道。感老君,授以祕籙,遂領弟子趙昇王長來雲臺山煉大丹,服之。漢永壽二年,自…

孔融「潁川人無能すぎワロタwww」

孔融の書いた『汝潁優劣論』 汝南の人物の方が潁川の人より優れているといいたいらしい 『汝潁優劣論』 融以汝南士勝潁川士,陳長文難,融答之曰:汝南戴子高,親止千乘萬騎,與光武皇帝共揖*1於道中,潁川士雖抗節,未有頡頏天子者也。汝南許子伯,與其友人…

劉備と公安の由来

『太平御覧』巻一百六十七 州郡部十三 山南道上 荊州 所引『荊州記』 蜀主敗于襄陽、南奔荊州。呉大帝擢為左将軍・荊州牧、城此而鎮之。時號蜀主為左安軍、故名其城曰公安。 劉備は襄陽で敗れて南へ逃れた。劉備は孫権により左将軍・荊州牧となり、この城(…