雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

『建康実録』を読んで呉の歴史を復習してみんとす。その2、孫堅〜孫策

はじめに

まだエターナってないよ!
そういえば言い忘れてたけど基本意訳だから、厳密じゃないよ。
これで誤訳してもおおかた誤訳じゃないよ意訳なんだよ!とごまかせる。

本題

太祖大皇帝の姓は孫、名は権、字は仲謀、呉郡富春の人である。その出自は周の武王の同母弟、衛康叔にはじまり、その後裔である武公の子は恵、その孫の曽耳が衛の上卿となり、(恵の孫だったことにより)孫を氏とした。春秋時代には孫武が呉王闔閭の将となり、呉に居住することとなった。大皇帝孫権孫武の後裔である。


孫権の祖父は孫鍾、父は孫堅。堅は生まれつき容貌が異質であり、漢に仕えて破虜将軍・長沙太守*1となった。霊帝の末期(厳密には献帝初期。)、董卓が乱をなすと、孫堅は長沙で挙兵し董卓軍を陽夏で破った。長躯して洛陽入りし、漢の陵墓や廟を修復して祀りなおした。軍を城の南に駐屯させたが、甄官井という井戸の中から五色の気が立ち上がっているのを見た。人をやって井戸に入らせると、漢の伝国の玉璽が見つかった。文には「受命于天、既寿永昌」とあった。四辺の和*2は四寸で、印綬の紐をかける鈕の部分には五匹の龍が交わっている。龍は一角が欠けていた。
後に荊州劉表を征伐した際、江夏太守の黄祖の伏兵により峴山で殺された。孫堅の兄の子、賁が孫堅の喪により還り曲阿に葬った。孫賁孫堅の配下を収めて淮南の袁術のもとに帰った。孫堅には四人の子、孫策孫権孫翊孫匡があった。


そのころ、曹操袁紹と対抗していたが、制することはできなかった。そのため孫策とよしみを通じ、弟の娘を孫策の末弟孫匡に嫁がせ、孫策の従兄弟孫賁の娘を曹彰の夫人とした。


建安五年四月、広陵太守陳登が射陽を治め、ひそかに密使をおくり、会稽の厳白虎の残党に印綬を与えて孫策を謀殺しようとした。孫策はそれを知り、陳登を討つため丹徒に至った。曹操袁紹と官渡で戦っているのを聞き、長江を渡り、献帝を迎え入れようと謀った。

むかし、呉郡太守許貢は孫策を英傑とみて、上表した。
孫策の勇は天下を覆い、その猛々しさは項羽のようでございます。朝廷に召し入れるてください。そうしなければ必ず後の患いとなることでしょう。」
孫策はそれを知ると、人をやってその上表をさえぎり、許貢を呼んで責めた上、武士に絞殺させた。
この(陳登を討つための)兵が長江の上に駐屯していたとき、孫策は猟に出た。馬を駆り、従者の騎と遠く離れたところ許貢の食客許昭に刺されて顔に傷をおった。


その時、琅邪の道士于吉は道術をこころえ、呉の中にいた。言うことなす事霊験があり、諸将の三分の二が孫策をほおって于吉を信奉したため、孫策はこれを憎んだ。丹徒に至ると洪水と干ばつの責めを于吉に負わせて誅殺した。これより後にひとりでいると常に于吉がそばに見えるようになった。許昭に傷つけられると、その傷跡を羞じ、孫策は性格が剛だったので、鏡で顔の傷を見ると、怒って言った。「大丈夫たるもの功業をうちたてようとするに、顔がこのようでは(アカン)!」
遂に鏡をぶん投げて絶叫すると、傷が裂けて死んだ。享年二十六歳であった。


後事を弟の孫権に託し、長史張昭・張紘に補佐させた。臨終に際して孫権にこう言った。
「江東の衆を挙げて、陣の間に機を決し、天下を争うことではきみは私に及ばない。でも賢者を挙げて適材適所し、その心を尽くさせ、江東を保つことなら私はきみに及ばない」
言い終わると死んだ。
孫権は喪をやめなかったので*3、張昭は孫権に言った。
「そもそも後を継ぐ人には、よく先人の軌跡を受け継ぎ、よく受け継いだ業を盛んにして、そうして功業をうちたてることが重要です。今天下は鼎が沸いたように乱れ、やまいぬや狼のごとき凶暴な者どもが道に溢れています。泣いている場合でしょうか?これは開門して盗賊を迎え入れるようなものです。仁の行いとはいえません」
そして孫権の(喪服から平服に)衣服をかえ、たすけて乗馬させ、軍中を巡回させた。

*1:校勘:破虜将軍任命はもう少し後、袁術の任命だよ。

*2:原文:方圓(=円)、四角と丸という意味だが、『続漢書』に引く『漢旧儀』には方囲、すなわち四辺の和とあり、そちらに従う。

*3:未及息はようわからんので適当訳。