雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

『韓玄墓記』多分全文テキスト

清の汪応銓が長沙のバカ太守、韓玄の墓について書いた『韓玄墓記』というものがある。
ういっきーも韓玄の項で触れているので知ってる人も多いと思う。
全文テキストをhttp://www.cqvip.com/Read/Read.aspx?id=9538114で発掘したので、繁体化&日本語訳をする。
訳は依然として適当なので間違ってると思う。鵜呑みにしないでね。

長沙府城西有古塚隆然、相伝為三国時長沙太守韓玄之墓。其前祠屋三間、卑陋下湿、守塚人以葦席蔽其旁居之、穢気触人。余遊湘東、過而傷之。
先是墓南為府治、前後太守数見霊怪。或聞堂上叱呵声、風雨之夕、儼衣冠坐立、或数処皆見之。太守不自安、徙治所、今為提学校士之館。然怪異不絶云。
玄領守長沙、自荊州劉表之時、魏武克荊州未暇易置守令、故黄忠・劉盤其守攸並仍旧任、而統属於玄。至昭烈南征四郡、玄以城降。其見如史者如此。
余嘗以謂黄忠勇毅冠三軍、当群雄披攘之際、能事玄而為之下、玄降、而忠始委質入蜀、蓋其威信智略必足以服人者矣。昭烈、漢之支裔、寛厚愛人。玄与三郡倶降、兵不血刃、百姓安堵、可謂識逆順之理、有安全之徳矣!稗官小説流伝委巷、如羅本忠之徒、蓋以蜀書略無称紀、遂並抹殺其事跡、顛倒其本末。至於玄之死事、或在呂蒙襲奪之日、而移之壮繆。壮繆奉使拠荊、在玄既降之後、其入益陽、更在呉奪長沙之後。壮繆之英風義烈、震耀無窮。玄以馭衆之材受見、殺之。誣帰劉之実、冒拒敵之名。世人復以伝記為史記、耳食為多聞、終古霚霧莫能剖白、宜其二千年之靈爽、不能不為異於茲土也。
意者表而出之、使不没其実。官為置守塚一、塚作新宮而祠之、使神有所棲、庶有豸乎?余既嘆世所為之然者、往往不然也!故嘗為之説而記之、抑官斯土者或有取焉。

訳:
長沙府城の西に古い墓が隆然とたっている。三国時代の長沙太守韓玄の墓であると代々伝えられている。その前にある三つの祠は粗末なあばら屋で、墓守は葦のござでそのわきをおおって座る。臭気が人を侵す。私が湘東(地名:長沙付近)に行きここを通り過ぎた際、傷ましく思った。
これより先、墓の南が長沙府の役所であった。そのころの太守はしばしば不思議なことを見た。ある人は堂の上から叱る声を聞いた。風雨の夕刻、おごそかな服装の者が数カ所で目撃された。太守は不安になって役所を移し、(もとの役所は)今は提学*1の校士の館となっているが、怪異は絶えないという。
韓玄が長沙を領していたのは荊州劉表の時であり、曹操劉表に勝っても郡県の長官を替える時間がなかったので、黄忠、劉盤に今まで通り(長沙の)攸県(地名)を守らせ、韓玄に所属させた。劉備荊州南部の四郡を征服しに来ると、韓玄は城を挙げて降った。史書はそのように書いている。私はかつて黄忠の勇を三軍に冠たると言ったことがあったが、まさに群雄達が国土を平らげんとしている中で、よく韓玄に仕えてこれに下属し、韓玄が降ってはじめて黄忠劉備に帰服して入蜀した。(韓玄の)その威信、知略は必ず人を服させるに足るものであったのだろう。劉備は漢室の末裔であり、人材をひろく厚く好んだ。韓玄荊南の他の三郡とともに降ったので、兵は刃を血に染めず、人々を安心させた。さからうこと、したがうことの逆順の道理というものを知っており、安全の徳があったといえる。
ちまたに流布するいやしい小説、羅本忠(羅貫中?)の徒、蓋し蜀書を以て紀を称することほぼ無くは蜀書に本紀がなかったので、*2、その事跡は抹消され、順序を転倒させている。韓玄の死については、(史実では)呂蒙の(長沙)襲奪の日のことであったが*3、これを関羽の行いとしている。関羽が命を奉じて荊州に割拠したことは、韓玄が既に降伏の後のこととするが、益陽に入っ(て荊州に割拠し)たのは、更に呉が長沙を奪った後である。関羽の英雄の風、忠義の烈は震い輝き、窮することはない。韓玄は人々を治める才で受け入れられたが、(小説では)これを殺している。劉備に帰順したという事実を抹消し、敵として拒んだという名を与えた。世間の人はこの伝記を歴史の記録とし、聞いたことをそのままうけいれて多くの物事を知っているとする。長い年月の霧の中でよく申し開きできるものはいない。(記録された歴史を歴史の事実としているが、長い年月のためにその当事者たちが事実を語るということはできない。ってことかな?)その二千年の霊力がこの土地に怪異をおこさずにはいられなかったのだ。官はそのために墓守を置いて、墓に新たに建物を作ってこれを祀り、神霊の住むところとし、(怪異を)取り除こうとしたのか?余は既に之を然りと為す所の世を嘆じ、往々にして然らざるなり。故に嘗て之の為に説きて之を記す。抑も斯の土に官たる者或いは取ること有り。(うーんわからん。物語を信じてる人に、それは違う!ということで韓玄のたたりを除こうとしてこの文を書いたということか?わかんね。)

正直ちゃんと訳せてない。
簡単にいうと、清代、韓玄の墓は寂れていた。
昔、この墓の近くに太守府があったが、様々な霊障により、太守府を移した。韓玄つえーwww
韓玄劉備が来ると逆順の理というものにしたがって降り、民衆を戦火から守った。
にもかかわらず三国演義のような物語で不当に貶められている。
韓玄は「その物語は正しくない」と伝えるため、霊として現れた。
みたいな感じだと思われる。


韓玄には妖術と幻術を付けよう(提案)



降ってしまったわ、逆順の理に導かれて。


23:52、微妙に訳修正

*1:清の教育機関

*2:なんやようわからんので逃げの書き下し、たぶん物語なので歴史の事実に沿ってないということか?追記)https://twitter.com/Golden_hamster/status/220524720288837633とコメントにより修正しました。情報ありがとうございます

*3:よくわからん。韓玄の死については現在見られる史書に記述がなかった気がする。