厳顔のその後
だいぶ昔に厳顔が自刎したという話を載せたことがある。
この他にも厳顔のその後について別の話を発見したので、今回は改めて厳顔のことを整理してみたいと思う。
至江州,破璋將巴郡太守嚴顏,生獲顏。飛呵顏曰:「大軍至,何以不降而敢拒戰?」顏答曰:「卿等無狀,侵奪我州,我州但有斷頭將軍,無有降將軍也。」飛怒,令左右牽去斫頭,顏色不變,曰:「斫頭便斫頭,何為怒邪!」飛壯而釋之,引為賓客。
張飛に生け捕られるが、「我が州には首を斬られる将軍はいても、降伏する将軍はいない」と発言し、首を切られそうになるが、なおも顔色が変わらず、「早く斬れ」と言い放ち、張飛はその勇ましさに感心し、許されて賓客となった。
そして、その後どうなったかは特に記載がない。
『華陽国志』にもその後のことは同様に記載はない。
厳顔自刎説
かつてブログに掲載したものと同じ(上記)だけど一応孫引きではなく『続文献通考』からもってくる。
『続文献通考』巻六十二 節義考 忠臣一
厳顔、劉璋時為巴州刺史。張飛破巴州、斥以胡不早降。顔曰「我州但有断頭将軍、無降将軍。飛大怒、趣命斫頭。顔曰「斫頭便斫頭、何為怒耶。」飛義而釈之、後竟自刎死。
明代の『続文献通考』。
大筋は一緒だが、やはり、張飛に許されたあと自刎して死んだことになっている。
厳顔隠棲説
『古今図書集成』方輿彙編職方典 第 590 巻 成都府祠廟考一
嚴公祠 在縣治南。後漢嚴顏為巴州守,有德政。張飛義釋後,隱處翳嘶山。里人自唐宋以來祀之,祈禱輒應。敕封土主彰義王,今祠廢。
厳顔を祀った厳公祠の説明の中では、張飛に許された後、翳嘶山という山に隠棲したとされている。
唐や宋の頃に祀られたようで、その頃にはそういう話が流布していたのかもしれない。
厳顔、神になる。
『古今図書集成』方輿彙編職方典第 586 巻 成都府山川考一
馬落巖 在縣治北五里。相傳宋李順為寇,後漢嚴顏為邑土主神,鎮翳嘶山,捕勦日,陰為助戰,順於此落馬,成擒,因名。
馬落巖という地の説明には次のようにある。
宋の李順が乱を起こした時(993-995年 均産一揆)、厳顔はこの土地の主神として、翳嘶山に鎮座していた。
李順征伐の際には征伐軍へ神助を行い、李順はここで落馬し捕らえられたという。
そのためかは知らないが、『宋会要輯稿』によると、翳嘶山に厳顔神祠というものがあり、水滸伝でも有名な宋の徽宗皇帝が1108年に「孚貺」(天が瑞兆を賜うの意)の額をプレゼントし、その後、宋の孝宗も1167年に英恵忠応侯に封じている。
宋代には、厳顔は神として祀られていたし、神助を行ったという伝承もあったようだ。
終わりに
厳顔のその後については、歴史として考えるのであれば、張飛の賓客となったというところまでであって、自刎したというのはソース不明だし、隠棲したとか、神になったというのも伝承レベルのものでしかない。
ただ、そういった厳顔の伝承が形成される過程などはもしかしたら結構面白いものがあるかもしれないので、そのあたりを他の様々な文献などからも探したり、現地で話を聞いたりして、「神になった厳顔 -厳顔伝承の形成と成立過程についてー」という論文にして三国志学会あたりで発表しようかな(しない。)
*1:『華陽国志』を見ると、巴郡太守は趙筰という人で、厳顔は守将として駐屯していたように思われる。そもそも巴郡出身なので基本的に巴郡太守にはなれない。