雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

列子の来歴と王氏と傅氏

列子春秋戦国時代の列御寇の著書とされるものである。
杞憂や朝三暮四の出典がこれである。
東晋の張湛が序文をつけた。この序には列子の来歴以外にも面白いことが載っている。

列子』序
湛聞之先父。曰、吾先君與劉正與・傅穎根、皆王氏之甥也。竝少遊外家舅始周。始周從兄正宗・輔嗣皆好集文籍。先并得仲宣家書、幾將萬卷。傅氏亦世為學門。三君總角競録奇書。及長遭永嘉之亂、與穎根同避難南行。車重各稱力、竝有所載、而寇虜彌盛前途尚遠。張謂傅曰、今將不能盡全所載。且共料簡世所希有者、各各保録令無遺棄。穎根於是唯賷其祖玄・父咸子集。先君所録書中有列子八篇。及至江南僅有存者、列子唯餘楊朱・説符・目録三卷。比亂正輿為揚州剌史、先來過江、復在其家得四卷。尋從輔嗣女婿趙季子家得六卷。參校有無、始得全備。

適当省訳
張湛は父(張曠)からこう聞いた。
私の父(張湛の祖父、張嶷蜀漢の同名人物とは別人)と劉正輿(劉陶:東晋の揚州刺史)・傅潁根(傅敷:北地傅氏、東晋の丞相従事中郎)は皆王氏の甥であり、若くから叔父の王始周のもとに遊学した。始周の従兄弟の王正宗(王宏)・王輔嗣(王弼)はみな文書典籍コレクターだった。この以前に王仲宣(王粲)の家の蔵書を得、あわせて万巻になるほどであった。傅氏もまた学問の家であり、張・劉・傅の三人は子どもの頃から競ってレアな本を書き写していた。長じて永嘉の乱にあい、傅敷とともに江南へ避難することにした。それぞれ持てるだけ本を車に積み込み運んだが、異民賊の勢いは盛んで、前途はまだ遠かった。張嶷は傅敷に言った。『今全部載せて行くのは無理だ。ともに世に珍しいものだけ選んで持って行き、それぞれしっかり保持して遺棄しないようにしよう。』傅敷は、祖父傅玄と父傅咸の全集だけを選び、張嶷列子八篇を持った。江南に至ってみると、列子はわずかに楊朱篇・説符篇・目録篇の三巻しか残っていなかった。乱後、劉陶は揚州刺史となると、長江を越え自分の家で列子四巻を得た。さらに王弼の娘婿の趙季子の家を尋ね列子六巻を得て、校勘して全部が揃ったのである。

張湛や劉陶は晋書に名前がでてくるものの事跡はよくわからない。
ここに出てくる王粲の蔵書は蔡邕から受け継がれている物もある。
王粲の子が魏諷の乱に関わり処刑されると一族の子世代にあたる王業に受け継がれた。その子が王弼と王宏である。これらの書物も永嘉の乱で大部分が散佚した物と思われる。もったいない><
傅敷は傅玄・傅咸の全集を選んだが、おそらくその中に『三国志』注にしばしば引かれる傅玄著『傅子』も含まれていたのだろう。おかげで今でも一部は読める。おおむね曹爽政権をディスってる記述だけど。


王粲や王弼の山陽王氏と傅玄や傅咸の北地傅氏が縁戚関係になっている。
この中に登場する縁戚関係を図にしてみた。

王弼って後継ぎはいなかったけど娘はいたんだなあ。