碑と史書との整合性
『後漢書』本紀巻八、霊帝紀、中平五年条
益州黄巾馬相攻殺刺史郗儉,自稱天子,又寇巴郡,殺郡守趙部,益州從事賈龍撃相, 斬之。
中平五年六月、益州黄巾*1馬相が刺史の郤倹を殺し、天子を僭称した。また、巴郡に攻め込み、巴郡太守の趙部を殺した。益州従事の賈龍が馬相を討ち、斬った。
さて、『隷釈』に「巴郡太守張納碑」という碑が収録されている。
中平五年に建立されたもので、当時現職の巴郡太守張納を称えている。
「あれ、中平五年といえば、巴郡太守は趙部、しかも殺されてなかった?」という疑問がでるであろう。
実は『後漢書』の書き方に問題がある。
・刺史郤険殺害&天子僭称
・巴郡太守趙部殺害
・益州従事賈龍が馬相を撃破
このすべての出来事が中平五年六月に起きたように思えてしまうのだが、『華陽国志』巻五、公孫述劉二牧志は、馬相の乱の発生を中平元年とする。
おそらくは、中平元年に発生した乱を中平五年に賈龍が鎮圧したのだ。
『後漢書』の中平五年六月というのは賈龍が馬相を斬ったことにだけかかり、刺史や太守の殺害中平元年から中平五年の間に起こったもので、決して中平五年六月の一ヶ月の間に起こったのではない。
張納は趙部殺害後、その後任として赴任して土地の安定に努めたのであろう。
そして、その功績を称えるために碑が作られたのかもしれない。