雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

皇甫隆

三国志』巻十六 倉慈伝 注引『魏略』
天水王遷,承代慈,雖循其迹,不能及也。金城趙基承遷後,復不如遷。至嘉平中,安定皇甫隆代基為太守。初,燉煌不甚曉田,常灌溉滀水,使極濡洽,然後乃耕。又不曉作耬犂,用水,及種,人牛功力既費,而收穀更少。隆到,教作耬犂,又教衍溉,歲終率計,其所省庸力過半,得穀加五。又燉煌俗,婦人作裙,攣縮如羊腸,用布一匹;隆又禁改之,所省復不訾。故燉煌人以為隆剛斷嚴毅不及於慈,至於勤恪愛惠,為下興利,可以亞之。

安定の皇甫隆。嘉平年間(249―254)に燉煌太守として治績をあげた人である。
道教の書および養生論の中に皇甫隆という人が出てくる。

『歴世真仙體道通鑑』巻十二 劉京
劉京者,本漢文帝時侍郎也,從邯鄲張君學道,受餌雲母、朱英方,服之,百三十餘歲,視之如三十許人。能知吉凶之期,又能為人祭天益命,或延得十年五年。至魏武帝時,京遊諸弟子家,皇甫隆聞而隨事之,以雲母丸子方教隆,隆合服之,得三百歲,不能盡其道法,故不得度世。又有王公看於京得丸子九,時王公已七十歲,乃服之,御八十妾,生二十兒。騎馬獵行,日二百里,飲酒一斛不醉,得壽二百歲。

魏武(曹操)の頃、皇甫隆は漢の文帝時代(BC180―BC157)から生きている道士劉京*1に長生の薬を教わり、三百年の寿命を得た。なお、道法には通じることが出来なかったので、仙人にはなれなかった模様。

『太平広記』巻十四 神仙十四 劉子南 所引『神仙感遇伝』
劉子南者、乃漢冠軍將軍武威太守也。從道士尹公、受務成子螢火丸、辟病疫氣、百鬼虎狼、虺蛇蜂蠆諸毒。及五兵白刃・賊盜凶害。用雄黄雌黄各二兩、螢火鬼箭蒺藜各一兩鐵、槌柄燒令焦鄢。鍜竈中灰羖羊角各一分半研如粉麵、以鶏子黄並丹雄鶏冠血。丸如杏仁大者、以三角絳囊盛五丸、帶左臂上、從軍者繫腰中、居家懸戸上、辟盜賊諸毒物。子南合而佩之、永平十二年、於武威邑界遇虜、大戰敗績、餘衆奔潰、獨為寇所圍、矢下如雨、未至子南馬數尺、矢輒墮地、終不能中傷。虜以為神人也、乃解圍而去。子南以教其子及弟兄為軍者、皆未凖被傷、喜得其驗、傳世寶之。漢末、青牛道士封君達得之、以傳安定皇甫隆、隆授魏武帝、乃稍傳於人間。一名「冠軍丸」、亦名「武威丸」、今載在『千金翼』中。

また、安定の皇甫隆は漢末、まむし、さそり、蜂といったあらゆる毒を防ぐ「冠軍丸」(別名「武威丸」)の処方を封君達という道士から伝えられ、それを曹操に授けたという。
曹操が皇甫隆に養生法を尋ねた話が『古今図書集成』に引かれた『養生論言』にある。

『古今図書集成』博物彙編藝術典 巻三百五十 醫部 彙考 所引『養生論言』
魏武與皇甫隆令曰:聞卿年出百歲,而體力不衰,耳目聰明,顏色和絓,此盛事也,所服食施行導引,可得聞乎?若有可傳,想可密封示內。隆上疏對曰:臣聞天地之性,惟人為貴,人知所貴,莫貴於生荒唐無始,劫運無窮,人生其間,忽如電過,毎一思此,惘然心熱,生不再來,逝不可追,何不抑情養性以自保惜。今四海垂定,太平之際,又當須展才布德,當由萬年,萬年無窮,當由修道,道甚易知,但莫能行。臣常聞道人蒯京已年一百七十八而甚丁壯,言人當朝朝服食玉泉,琢齒,使人丁壯有顏色,去三蟲而堅齒。玉泉者口中唾也,朝旦未起,早漱津令滿口,乃吞之,琢齒二七遍,如此者,乃名曰錬精。

曹操「君は百歳をすぎても、体力は衰えず、耳目ははっきりして、顔色もいい。こっそり方法教えて!」
皇甫隆「百七十八で元気な蒯京という道士がいるけど、玉泉を飲み、琢歯というあごを上下に動かして歯をぶつけ合う養生法やってるみたいだよ。顔色のいい人は寄生虫がいなくて歯がしっかりしてる。玉泉は唾液で、朝に口をすすいで、これを飲み、琢歯を二十七回やればいいよ」


正直訳せない>< 特に最後の引用。
まあとりあえず『三国志』では敦煌太守として注に引かれただけの皇甫隆、養生法などを知った道士と同一人物かも知れない。
もっと皇甫隆に注目してみよう。

*1:漢の文帝時代の侍郎で、邯鄲の張君から道をまなび、雲母丸や朱英丸のような長生の薬を服用し、長生きしていながら見た目は三十ばかりであった。