毌丘倹(かんきゅうけん)?毋丘倹(ぶきゅうけん)?
その展示に「毋丘倹紀功碑」というものがあり、その解説に「魏の将軍の名は毌丘倹(かんきゅうけん)とされてきたが、近年の研究では毋丘倹(ぶきゅうけん)とされる。」とある。
図録によると、その研究とは田中俊明氏の「魏の東方計略をめぐる問題点」(『古代武器研究』九 古代武器研究会、2008)だそうだ。
辺境に島流しされている私は、残念ながらその論文を参照できる環境にないため、私なりにアプローチをしてみた。
結論から言うと、私も近年の研究同様、毋丘倹(ぶきゅうけん)とすべきかもしれないと思うため、本記事ではそう呼称することにする。
この画像は中国古代の印を集めた荘新興編「古鉨印精品集成」(上海古籍出版社、1998)に掲載されている。
毋丘倹ではないが、同じ姓の毋丘調という人の印である。
史書に記載はない人で、はっきりと時代はわからないが、漢から晋の間の印として収録されており、毋丘倹とそれほど遠く離れた時代の人ではないと思われる。
印は篆書体で彫られているが、ここで毌(かん)と毋(ぶ)の篆書体を比較してみよう。(説文解字による篆書体)
毌(かん)
毋(ぶ)
印の右上の字は「毋」の字体と非常に近い。
というわけで、この姓は少なくとも漢から晋にかけて毋丘(ぶきゅう)であった。
まあ、毌丘(かんきゅう)という姓も同時に存在していて倹さんは毌丘だったという可能性もあるけど…。