雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

霍峻の部曲

三国志』巻四十一、霍峻伝、附霍弋伝
霍峻字仲邈,南郡枝江人也。兄篤,於鄉里合部曲數百人。篤卒,荊州劉表令峻攝其眾。表卒,峻率眾歸先主,先主以峻為中郎將。(略)子弋,字紹先,先主末年為太子舍人。(略)後為參軍庲降屯副貳都督,又轉護軍,統事如前。時永昌郡夷獠恃險不賓,數為寇害,乃以弋領永昌太守,率偏軍討之,遂斬其豪帥,破壞邑落,郡界寧靜。遷監軍翊軍將軍,領建寧太守,還統南郡事。景耀六年,進號安南將軍。是歲,蜀并于魏。弋與巴東領軍襄陽羅憲保全一方,舉以內附,咸因仍前任,寵待有加。

霍峻は荊州南郡の人。(追記:兄の霍篤が)郷里で部曲(私兵)数百人を集めて(追記:霍篤の死後、その兵を受け継いで)劉備に従った。
その息子霍弋は益州南部の軍事に携わる庲降都督の副官や永昌や建寧の太守となった。
蜀滅亡後、晋代になっても、南中都督として南方で活躍。蜀から晋にかけての益州南部の重鎮であった。


さて、その建寧郡。

『華陽国志』巻四、南中志
建寧郡治,故庲降都督屯也,南人謂之「屯下」。屬縣晉初十七,分置益州、平樂二郡后,縣十三。戶萬。去洛五千六百三十九里。有五部都尉,四姓及霍家部曲。

建寧郡の郡都は庲降都督の屯営があり、南方の人々は「屯下」と呼んだ。
そこには五部都尉*1と四姓*2、そして霍家部曲があったという。


この霍家部曲はおそらく霍峻→霍弋と受け継がれた、霍氏の私兵なのだろう。
それは霍弋の子にも受け継がれたようで、霍弋が死ぬと、その子の霍在がその兵を領したとある。*3


このように、霍氏は南中に自前の私兵を持ち、大きな影響力を築いたようで、霍弋の孫の霍彪は益州南部の越嶲太守や建寧太守、寧州刺史となっている。おそらく霍彪も霍家の部曲を受け継いだのだろう。


また雲南省で霍墓という東晋代の霍承嗣という人の墓(リンク先中文)が見つかっている。
『華陽国志校補図注』の任乃強先生の注によると、その壁画から、霍家の部曲は東爨(烏蛮)と西爨(白夷)という異民族がそれぞれ一隊を構成していたとしている。


当然のことながら故郷の人を集めた霍峻時代からの部曲とは構成がだいぶ変化していたようだ。
『華陽国志』はまたいう。

『華陽国志』巻四、南中志
南中諸姓、得世有部曲。弋遣之南征。因以功相承也。

南中の諸姓それぞれが代々兵を受け継いでおり、霍弋が彼らを南征*4につかわし、その功により兵を継承したという。


読解力が低いので、南中の諸姓それぞれが継承したのか、南中の諸姓の部曲を霍弋が継承したという意味なのかよくわからないが、霍弋は南中都督として南中の部曲などを統帥し、そのままそれらの部曲を自らの部曲として取り入れることが許されたとも考えられる。
そのようにして、他の諸姓が率いていた異民族の兵を霍家の部曲に取り込み、異民族により構成される東晋の霍家部曲へと変化していったのかもしれない。


どうでもいいけど、晋って蜀を支配しきれてない感じがすごくする。
益州各郡の太守に蜀漢の人物の子孫がなることが多いし。
益州という土地はいつの時代も自立指向が非常に高いね。
やはり自活できるだけの資源があるというのは大きそう。

*1:諸葛亮の南征後にその地の有力者に異民族兵を分けて五部都尉を置いた

*2:土地の有力者。大姓とは少しニュアンスが違うらしい。そのうちとりあげる予定。

*3:「弋卒,子在襲領其兵,和諸姓。」(『華陽国志』巻四、南中志)

*4:おそらく諸葛亮のではなく晋代魏末の話