雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

南中の四姓五子

史料

『華陽国志』巻四、南中志
移南中勁卒青羌萬餘家於蜀為五部無當無前號為飛軍分其羸弱配大姓雍婁爨焦孟量毛李為部曲置五部都尉號五子故南人言四姓五子也。

訳:
諸葛亮は南征後、南中の兵や青羌の一万余りの家を蜀に移住させ、五部・無当・無前という部隊をつくり、飛軍と号した。*1またその中の弱い者たちは有力氏族の雍氏・婁氏・爨氏・焦氏・孟氏・量氏・毛氏・李氏にわけ、部曲とした。五部都尉を置き、五子と号した。そのため南方人は四姓五子と言った。

五子

四姓は後に回す「八つの姓があるのになぜ五子なんだ?」という疑問を持つかもしれない。
おそらく、この八氏族に部曲をわけた上、その八氏族の中から五姓を選んで五部都尉とし、この八姓の部曲を統率させたということではないだろうか。

量氏?

ここででてくる有力氏族の中に量氏という一族がいるのだけど、量という姓は中国史上ほとんどいない。『姓纂』という書物に載っているらしいが。
この量氏は董氏の間違いではないだろうか。形はにている。
さらに蜀滅亡後の魏呉の交州の争いの際、霍弋が率いた牙門将に建寧の董元という人がいるほか、幾人か建寧の董氏がおり、それなりの勢力があったと思われる。董元が牙門将として率いた兵は五部都尉時代から受け継いだものとも考えられる。

四姓

大姓も四姓もどちらも土地の有力者という意味のようだが、『華陽国志校補図注』巻二、漢中志の任乃強先生によると四姓というのは大姓ともニュアンスが違うという。
適当に訳す

封建社会がたつと、西南の郡県の官はみな氏族の領袖の人物に依って政令が行われた。これを大姓といった。大姓は原始社会の氏族組織が発展したもの。官に仕えて大官にいたると、その一族縁戚のよりどころとなり、その組織が地方勢力の宗族集団となる。大姓はまた勃興と盛衰があり、そのトップが怠慢無能だと官府により官に任じられなくなる。封建社会が安定すると、官府は大姓でない小姓の首領の才能あるものを用いるようになり、かつての大姓のように郷や亭の職を行わせる。各県を東西南北の四つにわけ、このような者四人を用いたので四姓という。四姓はもともと大姓だった者も多いが、必ずしも大姓であったとは限らない。県が広くて五・六の郷があったり、逆に狭くて二・三郷しかなくても(四つじゃなくても)、官府に親近し、一方面の実権を握っている一族はみな四姓といった。これは魏晋ごろの蜀の俗称であり、この『華陽国志』でもよく使われる。封建社会が成熟し、官吏が必ずしも氏族の首領を政務に参加させなくなるに及んで、大姓や四姓という言葉も消えていった。唐宋でも姓氏や譜諜のように有力氏族は存在したが、官府は個々の人物を重んじ、氏族の集団というものは重視しなくなった。

なるほどわからん。まあ大姓は大きかったから官についた一族で、四姓は官についたから大きくなった一族って感じか。
大姓=四姓のときもあるというので厳密ではないけど。

四姓五子

四姓五子とは「地方で実権を握った者」というような意味で、数は関係ないのではないのだろう。
四姓は上に書いたとおりで、時代を経て人数は関係なくなり、「有力者」という意味であったのだろう。
また五子のように五部都尉に選ばれるというのも同様に「有力者」である。
なので四姓五子とは別に彼らのことを指したわけではなく、四字熟語として使ったのだろう。

おしりに

最後うまく書きたいことかけなかった。
恥ずかしいので消したいが、もともとこれを言うために書いたので中途半端な感じにしとく。
読解力のある人、私の言いたいことを汲み取ってください><

*1:一般的解釈とちょっと違うんで注意。そのためにあえて句読点は消した。無当を所当のあやまりだとする注がついてるんだけど、王平が無当監になってる。なので無当と解釈する。