雲子春秋

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初平年間の揚州刺史

初平年間(190−193)の揚州刺史は陳瑀とか陳禕とか陳温とか陳陳しててよくわからない。なので少し整理してみる。
最初の章はただの記述の整理なので、正直読まなくて良いよ。

記述の整理

まず、『三国志武帝紀・曹洪伝によると、初平元年(190)、曹操徐栄に敗れると揚州で募兵し、その際の刺史は陳温であった。

三国志』巻一、武帝
(初平元年)太祖兵少,乃與夏侯惇等詣揚州募兵,刺史陳溫、丹楊太守周虵與兵四千餘人。還到龍亢,士卒多叛。

三国志』巻九、曹洪
揚州刺史陳温素與洪善,洪將家兵千餘人,就温募兵,得廬江上甲二千人,東到丹楊復得數千人,與太祖會龍亢。


三国志袁術伝に引く『英雄記』によると、陳温は字元悌、汝南の人である。揚州刺史であったが病死、その後任として袁紹が袁遺を任命したが(おそらく袁術に)敗退し逃亡先で殺され、袁術が陳瑀を揚州刺史としたという。

三国志』巻六、袁術伝、注引『英雄記』
陳温字元悌,汝南人。先為揚州刺史,自病死。袁紹遣袁遺領州,敗散,奔沛國,為兵所殺。袁術更用陳瑀為揚州。瑀字公瑋,下邳人。瑀既領州,而術敗于封丘,南向壽春,瑀拒術不納。術退保陰陵,更合軍攻瑀,瑀懼走歸下邳。


また『三国志』呂範伝の引く『九州春秋』によると、初平三年(192)に揚州刺史陳禕が死に、その後任として袁術が陳瑀を揚州牧としたという。袁術曹操に封丘で敗れると(初平四年;193)、陳瑀は袁術の受け入れを拒み、袁術と敵対、袁術が兵を集めると講和を試みるが失敗、下邳に逃れた。引用しないが『三国志』討逆伝注などをみると、建安二年(197)に徐州の広陵袁術追討の詔を受けている。

三国志』巻五十六、呂範伝、注引『九州春秋』
初平三年,揚州刺史陳禕死,袁術使瑀領揚州牧。後術為曹公所敗於封丘,南人叛瑀,瑀拒之。術走陰陵,好辭以下瑀,瑀不知權,而又怯,不即攻術。術於淮北集兵向壽春。瑀懼,使其弟公琰請和於術。術執之而進,瑀走歸下邳。

おそらく陳温=陳禕。


三国志許靖伝には豫州刺史孔伷のもとにいた許靖が孔伷死後陳禕を頼ったとある。袁術は初平元年(190)、孫堅豫州刺史に任命しており、孔伷の死はその年であったと思われ、ここからも陳温=陳禕であったとわかる。

三国志』巻三十八、許靖
(孔)伷卒,依揚州刺史陳禕。禕死,呉郡都尉許貢、會稽太守王朗素與靖有舊,故往保焉。


んで、問題の記述はここからである。
後漢書献帝紀・袁術伝によると初平四年(193)三月に袁術が揚州刺史陳温を殺害し、自ら揚州刺史となったとする。
あれ、陳温は初平三年(192)に病死してたんじゃ……。
おそらく、この記述は、陳温の病死+袁遺の戦死+陳瑀の逃亡、の三つが混ざったものであり、実際は「袁術が揚州刺史陳瑀を追い出し、揚州を領有した」ということなのではないだろうか。
この記述は三月という細かい月まで書かれており、同時代史料*1を参考にした可能性がある。
当時の朝廷は董卓の死・李傕政権開始という混乱期であり、揚州の事情を把握しきれずにこのような記述になったのかもしれない。

後漢書』紀第九、献帝
(初平四年)三月,袁術殺楊(揚)州刺史陳温,據淮南。

後漢書』列伝第六十五、袁術
(初平)四年,術引軍入陳留,屯封丘。鄢山餘賊及匈奴於扶羅等佐術,與曹操戰於匡亭,大敗。術退保雍丘,又將其餘衆奔九江,殺楊(揚)州刺史陳温而自領之,又兼稱徐州伯。李傕入長安,欲結術為援,乃授以左將軍,假節,封陽翟侯。

まとめ

陳温=陳禕。
初平元年(190)は陳温が揚州刺史
初平三年(192)、陳温病死。袁紹は袁遺を、袁術は陳瑀をそれぞれ揚州刺史に任命、袁術は袁遺を敗死させる。
初平四年(193)、袁術曹操に敗れると陳瑀は袁術と敵対。三月に袁術は陳瑀を追い出し、揚州をみずから領有する。
このような混乱の中、初平三年の陳温病死、袁遺の敗死、翌年の袁術の揚州領有がごちゃ混ぜになって朝廷につたわり、「袁術が揚州刺史陳温を殺害して揚州を領有」のような記述が生まれたのであろう。

どうでもいい余談。

陳温と陳瑀は同じ陳陳だが、陳温は汝南陳氏、後漢の清流派陳蕃や蜀漢末の尚書令陳祗、(あと一応陳到)を排出した陳氏の出*2、一方の陳瑀は下邳陳氏、太尉陳球の一族、沛相陳珪の従兄弟、陳登の叔父であり、別な陳氏である。
陳祗は許靖の縁戚(兄の娘の子)を頼って蜀入りしてるし、許靖が頼った陳温となんらかの関係があるんじゃないかな。うん。
追記)そういえば袁術は鄭泰を揚州刺史に任じてるけど任地に行く途中で死んでるので今回は割愛してるよ。

*1:劉艾の『献帝紀』とか

*2:親戚関係あるかは不明。