雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

漢碑

黄龍甘露碑欠落部の推定

『隷続』巻第十五にある『黄龍甘露碑』 建安二十四年に黄龍が見えたことを記念して建てられたという。 二つの碑があり、二つ目に建安二十六年とあるが、『隷続』の編者は二つの碑を同時期に建てられたものではないとするため、一つ目の碑の建立も建安二十六…

褒斜道を通した男

次の文は褒斜道の崖に彫られていたものだという。 『金石萃編』巻二十四、李苞通閣道題名 潘宗伯韓仲元以泰○【始】六年五月十日造此石○【木へん】○【女へん】 景元四年十二月十日盪寇将軍浮亭侯譙国李苞字孝章将中軍兵石木工二千人始通此閣道 潘宗伯&韓仲元…

碑に生きた男

『隷釈』巻一、帝堯碑 (前略)故鉅鹿太守仲訢 故広宗長仲選 故呂長仲球 (後略) 帝堯碑(熹平四年:175年)の連名に、もとの鉅鹿太守仲訢、もとの広宗長仲選、もとの呂長仲球という人がいる。 この人たち、別の碑文にも連名している。 『隷釈』巻一、(成…

洛陽の紙価うんぬんで有名な左思の一族

左思、三国志好きにはおなじみですね! え、知らない?? やだなあ、西晋の人で魏呉蜀三国の都をテーマに三都賦を編んだんですよ! それが大流行して洛陽の紙価を爆上げさせたすごい人です!! まあ経歴はうぃっきーでも見てくれ。正確かどうかは知らんけど…

益州と興平改元

194年、改元が行われ、年号は初平から興平となった。 しかし、どうも益州においてはその後もそのまま初平が使われていた可能性がある。 初平は四年までしかないのだが、益州の地方史『華陽国志』では初平六年という表現が出てくる。 『華陽国志』巻一、巴志 …

『華芳墓誌』―華歆の曾孫華芳と太原王氏

1965年、北京で王浚の妻、華芳という人の墓が見つかった。 この墓は西晋永嘉元年(307年)に作られたもののようで墓から『華芳墓誌』とよばれる墓誌が出土した。 この華芳は華歆の曾孫であり、王浚は名門の太原王氏で『三国志』注にたびたび引用される『魏書…

碑と史書との整合性

『後漢書』本紀巻八、霊帝紀、中平五年条 益州黄巾馬相攻殺刺史郗儉,自稱天子,又寇巴郡,殺郡守趙部,益州從事賈龍撃相, 斬之。 中平五年六月、益州黄巾*1馬相が刺史の郤倹を殺し、天子を僭称した。また、巴郡に攻め込み、巴郡太守の趙部を殺した。益州従…

趙儀碑ついでに劉盛

2000年に発見された趙儀碑。建安十三年(208)の建立である。 以下の中国サイト見て繁体活字化。 http://blog.sina.com.cn/s/blog_60954b720100yrlz.html http://www.yingbishufa.com/ldbt/zhaoyibei.HTM 碑文 趙儀碑 漢故属国都尉犍為属国趙君諱儀字臺公,…

劉寛碑陰故吏名

応劭さんのいる風景 欠落が多いけど官職とか出身とか字から推定が可能かもしれない。 誰かやってみてね(他力本願) これで劉寛碑陰のテキスト化は終了。 誰か頭のいい人研究してね☆ 凡例 ●は一文字欠落 ……は文字数不明の欠落 【】内は一文字、変換できなか…

『隷続』巻十二劉寛碑陰門生名その二

http://d.hatena.ne.jp/chincho/20111213/1323740395 の続き。 劉寛碑陰のその二、無官の人々 特に有名な人はいない?かな? 例のごとく間違ってる箇所あるかもしれません。 ご指摘お願いします。 凡例 ●は一文字欠落 ……は文字数不明の欠落 【】内は一文字、…

『隷続』巻十二劉寛碑陰門生名その一

王邑とか公孫瓚とかが名を連ねることで知られる劉寛碑陰 テキスト化に挑戦その一。その二は未定。 建立はいつかよくわからんけど、相国長史別部司馬が名を連ねていることから、相国がいた時代(189―192)だと思われる(←追記:むじんさんの指摘によれば傅燮…

碑文に見る唐氏の一族

『隷釈』巻五 漢成陽令唐扶頌 君父孝廉郎中早卒、季父蜀郡、蜀郡従弟会稽、会稽従弟南陽、君従兄東莱太守、南陽弟司空公。 霊帝光和六年(183)に建てられた唐扶という人の碑文にその親族関係がでていた。 後漢の唐氏といえば、中常侍唐衡、その弟の司空唐珍…