雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

『建康実録』を読んで呉の歴史を復習してみんとす。先秦〜漢

はじめに

私は壊滅的に呉を知らない。
何してたかも、誰がいたかも。
知っているのは関羽の後ろを襲ったことくらい。
呉のイメージとしては「陸瑁ってなんで伝たってんだよ」って感じかな。
なので唐の許嵩による呉地方(建康)の通史チックな書物『建康実録』を読んでみようと思う。
あきたりめんどくさくなったら終わる予定。
エターナるまでおつきあいください^^
何回続くか楽しみだね(ニッコリ


ちなみに底本は中華書局のもの。呉の地方について書かれた部分は校注除いておおむね114ページある。一回分約3ページ訳すのに二時間くらいかかったので、全28回、56時間くらいかかる計算になる。
エターナる確率が飛躍的に上昇したね(ガッカリ


不毛な予防線発言はさておく。
今回はまだ呉には入らず、建康地方前史といったところ。
なお、たいした注がついてないんで一部を除いて注はカットさせてもらうぜ。
誤訳の可能性は大いにあるんで話半分で読んでね。あと、文中の「今」は基本的に唐のことだよ!たぶん……。

以下より本題

建康はもともと楚の金陵邑であった。秦が秣陵に改称し、呉は建業と改めたが、晋の愍帝は諱を業といったため、改めて建康とした。元帝が即位すると、建康宮と呼び、(江南に興った晋・宋・斉・梁・陳の)五代の間はそれを改めなかった。なのでこの書物は南朝のことを挙げる。


建業は古代の金陵の地である。『周礼』によると牽牛・婺女の星宿の分野で、『尚書』の禹貢九州によると、淮海地域を揚州とし、分けて越国、立てて揚州とし、これを揚州の領域とした。*1


昔、周の太王(古公亶父)の長子太伯と次男の仲雍は弟の季歴に位を譲り、ともに江南に去った。民衆は彼らに従って、これを君主と奉り、自ら勾呉と号した。太白が築いた勾呉の故城は、梅里の平墟にあった。今(唐代)の常州無錫県の東三十里にある故呉城というのがそれである。太白が死ぬと、子が無かったため民衆は仲雍を君主とした。仲雍から周章までの四代は皆呉において君主となり、武王が紂王を討つと、ここに(正式に)封ぜられた。そのため、春秋時代はこの地(建康)は呉に属していた。周章以後十八代で呉王夫差が即位するも、無道だったので即位後二十三年、『春秋』魯哀公二十二年(前473)冬十一月、越王勾践に滅ぼされ、その地(建康)は越に属することとなった。『逸周書』元王四年によると、越王勾践四年、春秋の末、越は呉を滅ぼして、江南の地をことごとく保有したという。*2勾践の七代のち、百四十三年にして越王無疆の即位元年、周の顕王三十六年(前333)のこと、越は中国の覇者となっており、斉・楚と覇を競い楚の威王に滅ぼされた。その地(建康)は楚に属し、山の名にちなんで金陵邑が置かれた。楚の金陵は今(唐)の石頭城のことである。一説にはその地が華陽の金壇に隣接していたために金陵となったともいう。


楚の威王の後百十年あまり、秦の始皇帝二十四年(前223)、秦が楚を滅ぼし、諸侯をあわせて、天下を三十六郡に分け、金陵を鄣郡の故鄣とした。今(唐)の呉興郡、浙江以東は会稽郡に属している。楚が滅んで十三年後の始皇三十六年(前211)、始皇帝は東に巡行し江乗より長江を渡った。望気者はいう「五百年後に金陵に天子の気があります」
そのため鍾阜を掘削し、金陵の丘を切り拓き、川の流れを通した。今まで秦淮と呼ばれている。*3そして金陵邑を秣陵県と改めた。秦の秣陵県城は、今(唐)の県城の東南六十里にある秣陵橋の東北の故城がそれである。


秦は周代(春秋戦国時代)の諸侯をやめさせ、郡県の宰守を置き、秣陵は鄣郡に属した。漢の武帝元封二年(前109)に鄣郡を廃して丹楊郡を置いたが、秣陵県は改めなかった。虞舜の時代にならって十二州刺史を置き天下の諸郡を領させた。『虞書(書経の一篇)』のいうところの「咨十有二牧」である。揚州はこの一つだ。


漢初に揚州を置いたが、特定の治所は無かった。*4
晋の永嘉年間(307―313)、王敦は始めて(治所を)建康とし、州城をたてた。それは今の江寧県城であり、置いたところはその西のあたりである。西は呉の時の治所の城であり、東は運涜、呉の大帝(孫権)が開削した所である。今の西州橋水がそれである。王莽は丹楊を改めて宣亭郡とした。後漢初、丹楊郡に戻し、郡治は宛陵とし、十七県を治めた。揚州は前漢から改めず、統括したのは六郡九十二県であった。

*1:訳せない。日本語になってないw

*2:本注:越王は江上鎮に築城した。今(唐)の淮水一里半の廃越城がそれである。越の范蠡の築いた城は東南は故城の望国門橋に近く、西北は牙門将軍陸機の家があった。そのため、陸機が晋に入朝すると『懐旧賦』をつくっていう「東城の紆余を望む」と。東城とはこの城のことである。

*3:本注:秦淮はもとの名を龍蔵浦といい、その上流にふたつの水源がある。一つは崋山に発し、句容の西南を経る。もう一つは東廬山から溧水の西北を流れ、江寧の境界に入る。二つの流れが合わさって方山埭から西に長江に注ぐ。その二源の流れの分派屈曲は人工的なものではなく、始皇帝の開いたものではないように思われる。古老たちが伝えるには方山の西、涜江の土山三十里は始皇帝が開いた。また石[石危]山を掘削し、西にこの浦を開通させた。後の人はそのため秦淮と呼んだ。

*4:本注:『輿地志』はいう、漢の揚州ははじめ歴陽を治所とし、後に寿春にうつった。霊帝末の揚州刺史劉繇袁術にせまられ、曲阿にうつったうんたんかんたん。と。