2010-01-01から1年間の記事一覧
古今図書集成には謎の書物からの引用が数多くある。 今日はその中の一つ『汪溪族譜』を紹介しよう。 この書物の詳細は不明。情報求ム。 『汪溪族譜』はある一族の系譜が書かれており、古今図書集成に引用されているのもその箇所だ。 その一族とは漢代の名門…
『三国志』巻十荀攸伝 於是封陵樹亭侯。 荀攸が封ぜられた陸樹亭。 ここはもともと県だったらしい。 『水経注』巻二十二 東逕平陸県故城北。高后元年、封楚元王子礼為侯国。建武元年、以戸不満三千、罷為尉氏県之陵樹郷、又有陵樹亭、漢建安中、封尚書荀攸為…
タイトルはあんまり関係ないです。 『萬姓統譜』皇犬子 犬子,小史,初名太子,武帝曰:皇太子非可命名。于是移點于外,因名犬子。 梁の人、皇犬子。姓が皇、名が犬子だ。 初めは「太子」と名付けられていたが、武帝が「皇太子なんて名前はだめだ!」といっ…
龍驤将軍、英語で言うと、The Dragon Gallop General。 まじカッケー! さて、私の厨二心に火をつける龍驤将軍。有名なのは呉を滅ぼした王濬である。 私は彼が最初の龍驤将軍だとおもっていたが、後漢末にすでに龍驤将軍がいた。 『萬姓統譜』汪文和 文和,…
『華陽国志』後賢志 少弟崇、字幼遠、學業淵博、雅性洪粹、蜀時東觀郎。大同後、梁州辟別駕、舉秀才、尚書郎。與壽良・李宓・陳壽・李驤・杜烈同入京洛、為二州標俊。五子情好未必能終。惟崇獨以?和,無所彼此。著《蜀書》、及詩賦之屬數十篇。其書與陳壽頗…
呉の八絶の一人、曹不興。画家である。 よく知られたエピソードは、『三国志』に引用された『呉録』のものである。 曹不興善畫,權使畫屏風,誤落筆點素,因就以作蠅.既進御,權以為生蠅,舉手彈之. 孫権の命で屏風を描いた際に、誤って筆を落として点をつ…
魏の韋誕は書に巧みで、魏の宝器の銘はすべて彼が書いたといわれる。 『世説新語』にはつぎのようなエピソードが載っている。 『世説新語』巧蓺第二十一 韋仲將能書.魏明帝起殿,欲安榜,使仲將登梯題之.既下,頭鬢皓然,因敕兒孫:「勿復學書.」 明帝が…
曹操は校事の盧洪と趙達に配下を監察させていた。 『三国志』巻二十四高柔伝 時置校事盧洪・趙達等,使察群下,柔諫曰:「設官分職,各有所司.今置校事,既非居上信下之旨.又達等數以憎愛擅作威福,宜檢治之.」 太祖曰:「卿知達等,恐不如吾也.要能刺舉…
安成長の呉碭という人物がいる。 『三国志』巻六十呂岱伝 建安二十年,督孫茂等十將從取長沙三郡.又安成、攸、永新、茶陵四縣吏共入陰山城,合衆拒岱,岱攻圍,即降,三郡克定.權留岱鎮長沙.安成長呉碭及中郎將袁龍等首尾關羽,復為反亂.碭據攸縣,龍在…
呉には斯という珍しい姓の人がいる。 『三国志』巻六十賀斉伝 縣吏斯從輕俠為姦,齊欲治之,主簿諫曰:「從,縣大族,山越所附,今日治之,明日寇至.」齊聞大怒,便立斬從. 從族黨遂相糾合,衆千餘人,舉兵攻縣.齊率吏民,開城門突撃,大破之,威震山越.…
世間的にほとんど(全く)知られていないし、知る必要もない。 知ったところでなんの役にも立たない。光栄三国志で新武将として作るのが最大限の活用法。 作っても使いどころはないけれど……。 前置きはこのぐらいにして本題。『三国志』に(おそらく)出てい…
『三国志』張裔伝 裔自至呉数年 雍闓の反乱が起きたときに呉に流された張裔は、本伝で数年呉にいたことになっている。 が、しかし・・・ まず、張裔が流された年は雍闓の反乱が起きた建興元年(223年)である。 『三国志』後主伝 建興元年夏、牂牁太守朱褒雍郡…
司空府または丞相府には軍師祭酒という官があった。 『三国志』では基本的に「軍祭酒」と書かれている。 これは司馬師の諱を避けたためといわれる。本当かはしらない。 (連名の際に祭酒と軍師祭酒で区別されているので別官の可能性もある?) さて、『三国…
文帝に対して帝位に就くことを薦めたメンバーの中に名を連ねる「給事黄門侍郎王䑛」 『三国志』文帝紀注 魏王侍中劉廙、辛毗、劉曄、尚書令桓階、尚書陳矯、陳羣、給事黄門侍郎王䑛、董遇等言・・・ 『三国志』での登場はここだけであるが、後の史書にも密かに…
ご無沙汰です。 明日(今日)大田区産業プラザ行われる三国志フェスに早大三国志研究会として参加します。 詳しくは http://sangokushi-festival2010.sangokushi-forum.com/ をご覧ください。 我々は弩の射的と、三国志占いをやります! 暇な方はぜひご来場…
録尚書時だから権力があった訳じゃないよね。 大将軍だから力があったんだよね。
実は、最近西洋かぶれ気味で、イギリス貴族の本、フランス革命の本、十字軍の本などを読んでおり、三国志から完全に離れていまして、ブログ更新も滞っていたという次第であります。 そんなわけで更新ネタが枯渇していますので、(傅)士仁(以下士仁)を擁護…
昨日の記事で取り上げた盧毓。盧植の息子である。 彼は曹爽政権になると失脚してしまうのだが、それ以前は長く吏部尚書として人材登用に携わっていた。 その彼の登用基準は次のようであった。 『三国志』巻二十二盧毓伝 毓於人及選舉,先舉性行,而後言才. …
『三国志』巻二十二盧毓伝 頃之,出毓為廷尉,司隸畢軌又枉奏免官,衆論多訟之,乃以毓為光祿勳. この部分をちくま訳では しばらくして盧毓を外に出して廷尉とし、司隷校尉の畢軌もでたらめの上奏をされて免職となった。 世論はそれをとがめるものが多かっ…
ま っ ぷ た つ 最近王安石を擁護してたから恨みを持った司馬光さんの霊がこんなことを・・・。 お許し下さい司馬光様ぁぁぁぁぁぁっ!
久しぶりの更新ですが突然三国志クイズ!!! 八歳で親政を開始し、 十歳で論語、 十三歳で尚書、 十五歳で礼記に通じた聡明な人物は誰でしょう? 正解は曹芳。 曹爽と司馬懿に隠れて影が薄いけれど実は聡明な人物であったのかもしれない。 それとも実権がな…
天人相関説は天の運行と人の政治が関係し、人の政治が乱れると天が災害を起こして警告するというもので、古くからあった思想だが、儒教に取り入れられ漢代から特に盛んとなった。(荀子は天人相関説を否定している。) 災害の原因を人の政治の乱れに求めるた…
宋(960-1279)の太学がけっこう面白い。 宋初は国子監といって官吏の子弟教育などを行っていたが、学生達はほとんど学校へ行かなかった。 ただ、国子監の学生は科挙の際に、若干のアドバンテージがあったので、科挙の時期になると、学生が殺到した。 科挙の…
やってきました不定期更新漢文講座。 今回は体言、つまり名詞の否定です。 今回から例文の語句の解説がテキトーになります。自分で調べる癖をつけよう! ググるだけでも主な意味はわかります。漢和辞典を使うとbetter!
昨日の続き。 “遷太后于永寧宮”についての黒いウワサ。
『三国志』巻四 三少帝紀 (正始二年)冬十二月,南安郡地震。(中略) (正始三年)秋七月甲申,南安郡地震。(中略) (正始)六年春二月丁卯,南安郡地震。 魏の正始年間(240-249)南安郡は三度の地震に見舞われた。 正始年間といえば曹爽が活躍していた…
待ってる人はあまりいなそうだけれどもお待たせしました。 久々の漢文講座。 否定形は数回に分けて行います。 今回は用言(動詞、形容詞、形容動詞)の否定を取り扱います。
お久しぶりです。更新停滞気味ですみません。 秦漢時代の印綬の印影が大量に収録されている「秦漢印典」(上海書画出版社)を眺めていると、 “宗正偏将軍章”という印影があった。 宗正府の官属に偏将軍があったのだろうか。 それとも、宗正兼偏将軍という意…
お久しぶりです。本当は漢文講座の続きを書く予定だったけど、上手くまとまらなかったのでまた後日。 さて、麋竺が富豪であったことは知られている。 『三国志』の本伝には、先祖の代から貨殖に努めて巨億の資産を持つに至ったと書かれている。 そして、あま…
昨日に引き続き何茲全「魏晋的中軍」(『中央研究院歴史語言研究所集刊』17)のまとめ。 今回は魏の中央軍。