2013-01-01から1年間の記事一覧
先日行われた三国志フェス。 企画の一つに芸人たちが三国志ネタで皇帝を目指すエンペラーオブお笑い三国志というものがあった。 その優勝の記念品として私雲子が玉璽をつくった。 納期より五日ほど遅れてしまった上、粗さが目立ち、まだまだ技術の拙さが隠し…
『日知録』巻二十三、氏族相伝之訛 段氏。後漢書:「段熲其出鄭共叔段。」古人無以祖父名為氏者、凡若此類、皆不通之説。 按段氏当出自段干。史記:「老子之子名宗、宗為魏将、封於段干。」 魏世家有段干木・段干子、田完世家有段干明。 顧炎武さんが段氏の…
先日、とある人が「自分は曹丕と干支が同じ、十二支だけじゃなく十干まで同じなんですよ」とお話しされていた。 それを聞いて三国時代(後漢末、晋初含む)の人物の干支を調べてみたくなったのでやってみる。 生年がわかる人物が少ないのでやりにくそうだけ…
知ってる人は多いけど、もしかしたら知らない人がいるかもしれないので。 新漢籍全文資料庫 http://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/ihp/hanji.htm 「免費使用」をクリック。 あとは検索ボックスに検索したい文字をいれるだけ。 おもに正史が検索できる。 三国演義…
後漢代、宦官と清流派の争いが激しさを増し、太学は清流派に与して抵抗勢力となっていた。 霊帝はそれに対抗するため、あらたに鴻都門学という学校を設立した。 文章の才ある者や、書道の上手い人などが集められた鴻都門学であるが、「小人の才」として士大…
昔、東大さんとの合同誌にのせた文章を転載。 ワードのコピペでふりがなが読みにくい感じになってるけどなおすの面倒だからヨロシク! 全部で8400字くらい。 韓遂を中心に涼州の軍閥について書いたもの。 ネタがまったくないのでしょーじきつまらん。一夜漬…
後漢代、太学生たちはしばしば集団行動を起こしていた。 『後漢書』列伝第五十五、皇甫規伝 其年冬,徵還拜議郎。論功當封。而中常侍徐璜、左悺欲從求貨,數遣賓客就問功狀, 規終不荅。璜等忿怒,陷以前事,下之於吏。官屬欲賦斂請謝,規誓而不聽,遂以餘寇…
皇甫嵩といえば黄巾の乱平定の名将、皇甫謐は皇甫嵩の曾孫で『高士伝』や『列女伝』を著した。 『世説新語』文学第四、68注引、王隠『晋書』 謐字士安,安定朝那人,漢太尉嵩曾孫也。祖叔獻,灞陵令。父叔侯,舉孝廉。 世説新語によると、皇甫謐の祖父(皇甫…
久しぶりの更新。 野球シーズンでブログはオフシーズンだからしゃーなし。 『晋書』によると、石に刻まれた「牛(牛氏)が馬(司馬氏)の後を継ぐ」という文を信じた司馬懿によって牛金は毒殺されたという。 『晋書』巻六、元帝紀 初,玄石圖有「牛繼馬後」…
我々応氏がいかにして代々二千石を輩出する名家となったか、そのはじまりを紹介しよう。 『後漢書』列伝第三十八、応奉伝 中興初,有應嫗者,生四子而寡。見神光照社,試探之,乃得黄金。自是諸子宦學,並有才名,至瑒七世通顯。 後漢の初め、応嫗(嫗は名前…
家学とは、ある一族が代々特定の学問を修めること、またその学問のこと。 易を家学とした一族について書きます。 易とはひとくちに言ってもいろいろと学派があるので先にその学派を表にしてみます。 学派 太字が創始者、太学科目とは後漢の太学での科目にな…
魏の司徒、陳矯はもとは劉氏だったが、母方の伯父の陳氏を嗣いで陳矯になったという。 『三国志』巻二十二、陳矯伝注引『魏氏春秋』 矯本劉氏子,出嗣舅氏而婚于本族。徐宣毎非之,庭議其闕。 そしてもとの劉氏と婚姻したため徐宣にdisられた。 さて、姓氏の…
『隷続』巻第十五にある『黄龍甘露碑』 建安二十四年に黄龍が見えたことを記念して建てられたという。 二つの碑があり、二つ目に建安二十六年とあるが、『隷続』の編者は二つの碑を同時期に建てられたものではないとするため、一つ目の碑の建立も建安二十六…
ちょっとまえにつぶやいたが、私は恥ずかしながら劉備の故郷の楼桑村が『三国演義』あるいはそれに先行するなんらかの三国志物語の創作であると認識していた。 ところがどっこいすっとこどっこい『水経注』にそれはあった。 『水経注』巻十二、巨馬河 又東逕…
前言、応劭の知名度向上を願って。 許可が出たのでだいぶ昔サークルの何かにのせた応劭礼賛の文章をそのまま載せるよ ただのネタだよー! ワードのコピペでふりがなが読みにくい感じになってるけどなおすの面倒だからヨロシク! それじゃー行くよー! 4500字…
一説によると厳顔は板楯蛮であるという。 一説によると傅士仁ははじめ公孫瓉に仕え、後に趙雲とともに劉備に従ったという。 一説によると楽進は楽毅の子孫であるという。 一説によると少帝は道術を使って生き長らえて朝鮮に逃れ、その子孫が日本に渡り東漢氏…
今日聞いた話 昨年pixivで行われた三国志大戦TCGカードイラストコンテストだかいう企画で王必を描いた人がいたらしい。 王必ウォッチャーの私でもさすがにpixivで王必を検索したことはなかったので知らなかった。 http://www.pixiv.net/member_illust.php?mo…
曹操を魏公に推薦する上表の中に領護軍将軍の王図という人がいる。 以前取り上げたが、魏(=漢末?)の漢中太守にも王図という人がいた。 http://d.hatena.ne.jp/chincho/20091214/1260729152 同一人物かはとりあえず置いとく。 曹操が冀州を平定した後に薛…
元号は基本的に中国古典から取られる。現在の元号、平成は『史記』とか『偽古文尚書』からとられている。 江戸時代最後の元号、慶応(1865−1868)、今となってはその年号をとった慶応義塾(現慶應義塾大学)のほうが有名だろう。 この慶應という元号の出典は…
また再利用更新。 そのときのツイートまとめ。たぶんブログ記事より読みやすい気がするw http://togetter.com/li/449154 五斗米道の始まりは結構謎に包まれている。一般には張魯の祖父張陵がはじめたとされているが、張脩という人物が始祖という説もある。…
http://d.hatena.ne.jp/chincho/20110928/1317139500 クッソ昔に書いた記事。 今までずっと黄巾の乱の経過を次のように思っていた。 1、張角の弟子唐客*1の密告 2、馬元義逮捕誅殺 3、黄巾蜂起 しかし、『後漢紀』を読んだらこんな感じだった。 春正月:…
まーたリサイクル更新。*1 『太平御覧』巻四百三十七、人事部七十八所引『厳尤三将論』 王翦為秦將滅燕,燕王喜奔逃東夷。秦王曰:「齊楚何先?」李信曰:「楚地廣,齊地狹,楚人勇,齊人怯,請先從事於易。」*2 戦国末期、王翦が燕を滅ぼした。 秦王(後の…
http://dash.shueisha.co.jp/feature/1301/ 始皇帝もののラノベが発売されたので読んでみた。 以下微妙にネタバレを含むかも知れないのでこれから読もうと思うかたは気をつけてください。 ワガママ始皇帝 毒舌ならぬ薬舌(自称)の李斯 全裸の変態蒙恬 の三…
最近はツイッターでつぶやいたものを記事にする省エネ更新が多いなあ。 まあいいや。 黄巾の乱の時の鉅鹿太守、郭典という人がいる。 正史では『後漢書』の皇甫嵩伝にわずか一度登場するのみ。 『後漢書』列伝第六十一、皇甫嵩伝 嵩復與鉅鹿太守馮翊郭典攻角…
朝につぶやいてた話。 上軍校尉、西園八校尉のトップである。 任官者は蹇碩しか知らなかったのだけど、『献帝春秋』に李傕時代の上軍校尉がでてきた。 『太平御覧』巻九十二、皇王部十七所引『献帝春秋』 五月,或欲轉乘輿幸黄白城,帝不肯。司徒趙温以帝當…
中國哲學書電子化計劃で太平御覧が全文検索できるようになっていたのでいろいろためしてた。 『太平御覧』卷六百四十五、刑法部十一、烹、所引『英雄記』 董卓攻得李昊、張安畢(主范)[圭苑]中,生烹之。二人臨入鼎,相謂曰:「不同日生,而同日烹。」 訳…
最近、霊帝は理想だけあって貫徹できなかった中途半端な皇帝という評価になって困っています。 いや、なんでもないです。 というわけで西園八校尉の続き。 前回書き忘れたのだけど、これらの西園軍の記事は、石井仁「無上将軍と西園軍――後漢霊帝時代の「軍制…
『水経注』巻二十三、汳水 (睢陽)城南二里、有『漢太傅掾橋戴墓碑』。戴字元賓、梁國睢陽人也。睢陽公子、熹平五年立。 睢陽城の南二里に、熹平五年(176年)に建立された、漢の太傅掾*1、橋戴という人の墓碑があったという。橋戴は字を元賓といい、梁国睢…
やるやる言って数日が過ぎたのでそろそろちゃんと書く。 一連の霊帝記事は、霊帝の中央集権・皇帝集権をテーマにお送りします。 結論から言うと西園八校尉の設置で霊帝が目指したのは皇帝集権の軍事組織整備である。 西園八校尉とは 西園八校尉は中平五年(1…
霊帝関係で師宜官調べてて西晋の衛恒(衛瓘の子)の『四体書勢』をちらっと見てみた。 『晋書』巻三十六、衛瓘伝附衛恒伝所引『四体書勢』 (師)宜官後為袁術將,今鉅鹿宋子有耿球碑,是術所立,其書甚工,云是宜官也。 師宜官が袁術の将となって鉅鹿に耿球…