西暦の日付で見る三国志 その1 ~黄巾の乱から少帝期~
後漢書とか三国志を読んでいると、年や月だけではなくて、起こった日付まで記載されているものが意外に多くある。
ただ、庚午とか乙巳といった十干十二支で書かれているため、グレゴリウスに忠誠を誓い、西暦に毒されてしまった現代日本人には日付として認識できないのである。
これを現代日本人にもわかりやすく西暦(グレゴリオ暦)に変換してみると、この出来事からわずか〇日でこんなことが起こっていたのか、とか、思ったよりも日数経ってたのか、といったような新たな発見がある(といいな)。
というわけで、新シリーズ、「日付で見る三国志」を始めようと思う。
シリーズものをエターナらせる雲子なので、いつまで続くかはわからないが、反応が良ければ継続しようと考えているので、反応よろしく!
ちなみに、日付が書いていない出来事はどんな重要なものでもバッサリカットするので、その辺の補完はみんながんばってくれ。
ちなみに西暦変換はここからやったよ。
表の幅が足りなくてクッソ醜いけど許してね。
西暦 | 出来事 | 中国暦 | 典拠 |
---|---|---|---|
161/1/29?*1 | 魏武帝の卞皇后誕生*2 | 延熹三年十二月己巳 | 『三国志』武宣卞皇后伝注引『魏書』 |
183/1/26 | 魏文帝の甄皇后誕生 | 光和五年十二月丁酉 | 『三国志』文昭甄皇后伝注引『魏書』 |
? | 南陽黄巾の張曼成が太守褚貢を攻めて殺す*3 | 光和七年三月庚子 | 『後漢書』霊帝紀 |
184/4/3 | 黄巾の乱決起予定日*4 | 光和七年三月五日 | 『後漢書』皇甫嵩伝 |
184/4/17? | 黄巾の乱発生?*5 | 光和七年三月甲子 | 『三国志』孫堅伝 |
184/4/1 | 何進を大将軍に、八関都尉を置く | 光和七年三月戊申 | 『後漢書』霊帝紀 |
184/4/5 | 党人を大赦 | 光和七年三月壬子 | 『後漢書』霊帝紀 |
184/4/8 | 魏文帝の郭皇后誕生 | 光和七年三月乙卯 | 『三国志』郭皇后伝注引『魏書』 |
184/6/7 | 馬元義が京都で謀反し誅殺*6 | 光和七年五月乙卯 | 『後漢紀』霊帝紀中 |
184/9/25 | 皇甫嵩に張角を討つよう詔する。 | 光和七年八月乙巳 | 『後漢書』霊帝紀 |
185/1/11 | 朱儁が宛城を抜き、孫夏を斬る | 光和七年十一月癸巳 | 『後漢書』霊帝紀 |
185/2/16 | 天下に大赦し、中平と改元する。 | 中平元年十二月己巳 | 『後漢書』霊帝紀 |
185/3/28 | 南宮で大火があり半月後消火 | 中平二年二月己酉 | 『後漢書』霊帝紀 |
185/3/29 | 楽城門で火災 | 中平二年二月庚戌 | 『後漢紀』霊帝紀下、『続漢書』五行志二 |
185/4/11 | 広陽門外の建物が自壊した | 中平二年二月癸亥 | 『後漢書』霊帝紀、『続漢書』五行志三 |
185/4/15 | もとの太尉劉寛死去 | 中平二年二月丁卯 | 『後漢紀』霊帝紀下 |
185/5/28 | 大風や雨雹が作物を傷つけた | 中平二年四月庚戌 | 『後漢書』霊帝紀、『続漢書』五行志三 |
185/11/4 | 司空楊賜死去*7 | 中平二年九月庚寅 | 『後漢書』霊帝紀 |
185/12/7 | 客星が南門(星座)の中に出て何年か後の六月に消えた。 | 中平二年十月癸亥 | 『続漢書』天文志下 |
186/3/24 | 天下に大赦する。 | 中平三年二月庚戌 | 『後漢書』霊帝紀 |
186/7/4 | 日食 | 中平三年五月壬辰 | 『後漢書』霊帝紀 |
186/11/27 | 月食 | 中平三年十月戊午 | 『続漢書』天文志下 |
187/2/16 | 天下に大赦 | 中平四年正月己卯 | 『後漢書』霊帝紀 |
187/3/8 | 南宮内殿の罘罳(格子状の塀)が自壊 | 中平四年二月己亥 | 『後漢書』霊帝紀 |
? | 瓜ほどの大きさの黒い気が発生した。*8 | 中平四年三月丙申 | 『続漢書』五行志六 |
187/8/8 | 雒陽の劉倉の妻が二つの頭を持つ子を産む。*9 | 中平四年六月壬申 | 『後漢書』霊帝紀、『続漢書』五行志五 |
187/11/1 | 獄につながれていて罪がまだ決していないものを絹を贖わせ釈放した。 | 中平四年九月丁酉 | 『後漢書』霊帝紀 |
188/2/29 | 天下に大赦 | 中平五年正月丁酉 | 『後漢書』霊帝紀 |
188/7/27 | 大風が樹を抜き、太尉樊陵を罷免 | 中平五年六月丙寅 | 『後漢書』霊帝紀 |
188/7/28 | 客星が貫索星に出て、西南の天市垣の方に行き、消えた。 | 中平五年六月丁卯 | 『続漢書』天文志下 |
188/10/24?*10 | 処士荀爽、陳紀、鄭玄、韓融、李楷を招聘しようと詔するも皆至らず*11 | 中平五年九月己未 | 『後漢紀』霊帝紀下 |
188/11/22 | 霊帝が平楽観で閲兵、無上将軍を自称 | 中平五年十月甲子 | 『後漢書』霊帝紀、『後漢紀』霊帝下 |
189/3/17?*12 | 白虹が日を貫く。*13 | 中平六年二月乙未 | 『続漢書』五行志六 |
189/4/16 | 張純を撃つため劉虞を司馬、幽州牧とする。 | 中平六年三月己丑 | 『後漢紀』霊帝紀 |
189/5/3 | 日食 | 中平六年四月丙午 | 『後漢書』霊帝紀 |
189/5/13 | 霊帝崩御 | 中平六年四月丙辰 | 『後漢書』霊帝紀 |
189/5/15 | 少帝即位、天下に大赦、光熹に改元*14 | 中平六年四月戊午 | 『後漢書』霊帝紀 |
189/5/19 | 袁隗を太傅・録尚書事にする詔 | 中平六年四月壬戌 | 『後漢紀』霊帝紀下 |
189/5/27 | 蹇碩が誅殺され、兵は皆何進に属す。 | 中平六年四月庚午 | 『後漢紀』霊帝紀下 |
189/6/7 | 驃騎将軍董重(董太后の兄の子)が獄死 | 中平六年五月辛巳 | 『後漢書』霊帝紀 |
189/7/7 | 董太后(霊帝の母)死去 | 中平六年六月辛亥 | 『後漢書』霊帝紀 |
189/7/17 | 霊帝を文陵に葬る | 中平六年六月辛酉 | 『後漢書』霊帝紀 |
189/8/15 | 董太后を河閒慎陵に葬る | 中平六年七月庚寅 | 『後漢書』霊帝紀 |
189/9/20 | 太白(金星)が心前星を犯す | 中平六年八月丙寅 | 『続漢書』天文志下 |
189/9/22 | 太白(金星)が心中大星を犯す。 中常侍張讓、段珪等が大将軍の何進を殺す。*15 虎賁中郎将袁術が東西宮を焼き宦官を攻める。 |
中平六年八月戊辰 | 『後漢書』霊帝紀 |
189/9/23 | 車騎将軍何苗が呉匡に殺される | 中平六年八月己巳 | 『続漢書』天文志下 |
189/9/24 | 張讓、段珪等が少帝と陳留王を連れて北宮徳陽殿に行こうとするが、宦官たちは河に身を投げて死亡 | 中平六年八月庚午 | 『後漢書』霊帝紀、『三国志』董卓伝注引『漢紀』 |
189/9/25 | 司隸校尉袁紹が偽の司隸校尉樊陵・河南尹許相。宦官らを斬る。 公卿以下が董卓と共に帝を迎え、宮殿に還り天下に大赦する。 昭寧に改元。*16 |
中平六年八月辛未 | 『後漢書』霊帝紀、『三国志』董卓伝注引『漢紀』 |
189/9/27 | 袁紹、董卓より少帝廃立を図られるも、否定し冀州へ逃走 | 中平六年八月癸酉 | |
? | 董卓が百官に少帝廃立を図り、盧植が反対、殺されかけるも蔡邕がとりなす。*17 | 中平六年九月癸酉 | 『資治通鑑』漢紀五十一 |
189/9/28 | 董卓が少帝を廃立する。 | 中平六年九月甲戌 | 『後漢書』霊帝紀 |
何進死後は一日ごとに大事が起こっていてすごい(こなみかん)
今日はここまで、この数年作るのに三日かかったので続きはしばらくないね。
エターナる可能性大なのでヨ・ロ・シ・ク!
(追記)醜すぎたのでちょっと修正。
*1:乙巳だった場合
*3:三月に庚子はない。張曼成は六月(184/6/26~7/25)に討たれるが、朱儁伝に宛の城下に集結して百日あまりとあり、二月(3/24)の誤りか、または庚午(4/23)の誤りか
*4:唐周の密告により実際には予定より早く反乱
*5:『後漢書』霊帝紀だと密告により早めて二月(日付不明)に決起、上の決起予定日より遅いので甲子(の年)三月とか何かの誤りかと思う。
*7:原文は「十月庚寅」だが中平二年十月に庚寅はない。
『集解』は楊賜伝に「二年九月復代張温為司空,其月薨」とあるため十月は誤りとする。
*8:中平四年三月に丙申はないため、年か月か日に誤りがあると思われる。
*9:『続漢書』五行志五では中平元年六月壬申だが、中平元年六月に壬申はなく、霊帝紀の記述に従う。
*10:乙未だった場合
*11:中平五年九月に己未はない。乙未の誤り?
*12:己未だった場合
*13:中平六年二月に乙未はない。己未の誤り?
*14:光熹元年だが、後になかったことにされたので中平六年のままとする。(以下同)
*16:昭寧元年だが、後になかったことにされたので中平六年のままとする。(以下同)
*17:中平六年九月に癸酉はないため月か日に誤りがある。『後漢紀」霊帝紀下では廃立の日に病と称して退出したとあるため、九月甲戌か。