雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

書物は焚書をいかに乗り越えたか

焚書坑儒」という四字熟語がある。「焚書」は書物を焼くこと、「坑儒」は儒者を穴埋めにすること。
秦の始皇帝が思想統一のために行った政策が由来である。
この言葉は現代日本においても人口に膾炙しており、いまだに表現規制や思想弾圧が起きた際に目にすることが多い。
そのような「焚書」政策が行われたにも関わらず、不思議なことにその対象となったはずの種々の書物が相当数秦より後まで伝わっている。
本稿はいかにして各書が「焚書」を生き残ったのかをとりあげる。

焚書とは

さて、本題に入る前に「焚書」の概要を簡単に見てみる。
焚書」は「挟書律」という法律によって行われた。
「挟書」とは「書籍を私蔵すること」であり、「挟書律」は「書籍の私蔵に関する法律」である。
この「挟書律」制定の直接のきっかけは、始皇帝による中華統一から八年後、始皇帝三十四年(前213)の儒者による復古主義的な進言を問題視したことなのだが、制定の背景には、儒者が復古的な言論で民衆を混乱させること以外に、儒家に限らず各思想が独自の観点から勝手な法解釈、法議論を行ったこともあると思われる。法律中に「法は官吏を師として学べ」とあることは法解釈の統一が目的の一つであったことを示唆している。文字や度量衡の統一だけでなく、思想の統一も必要であったのだ。
挟書律」は
・史官による秦以外の記録
・博士が官職上所蔵しているもの以外の、詩経書経諸子百家の書
これらを郡の長官に渡して焼かせ、以後それらの書の所蔵を禁じるというものである。
一方
・医薬
・卜筮(占い)
・種樹(農業)
に関する書物は破棄を免除された。当時の実学であったのだろう。
焚書」はこのようなものであった。
それでは本題に入っていこう。
基本的に『隋書』経籍志を参考にしている。

易経

易経周易)は卜筮の類だったので焚書を免れたものの、数篇が失われていた。
宣帝の時になって、失われていた一部を河内の女子が古い廃屋から発見したという。

書経

書経尚書)は焚書の被害をもろにうけたが、済南の伏生(伏勝)が二十八篇を口伝した。(『史記』では壁に隠していたという)
河内の女子がその他一篇を発見した。また河内の女子である。ちなみに易経書経のほかに礼も発見したようだ。
伏生は『尚書伝』四十一篇を著し、それが伝承されていった。これが「今文尚書」というヤツだ。
「今文尚書」と対になる「古文尚書」は前漢武帝期に魯の恭王が孔子の家をぶっ壊した際に発見された。

詩経

詩は口で歌われる物であったから滅びなかったという。漢初に魯の申公(申培)が注した『魯詩』、斉の轅固生による『斉詩』、燕の韓嬰による『韓詩』があった。そのほかに毛萇が孔子の弟子子夏から伝授されたと称した『詁訓伝』を著した。

礼記

秦の焚書以前から諸侯によって削除焼却されていた。
漢初に高堂生が伝承していた十七篇のほか、古経(『儀礼』)が見つかった。また古典オタクだった河間献王は焚書の燃え残りを集めた。
李氏が発見した『周官』(『周礼』)も、河間献王に献上された。
さらに、河間献王は孔子の弟子や学者達が記したものを手に入れたという。そしてそれが『礼記』のもととなる。
礼においては河間献王の果たした役割が大きいのだね。

春秋

秦の焚書の後も口伝によって残った。

孝経

河間の顔芝が隠していたために、焚書を免れた。
顔芝の子の顔貞が世に出した。

まとめ

最初は学術的文体で書こうとしたけど失敗した。
そして各書についての話もぜんぜん短いなあ。
基本的に誰かが壁だとかに隠していたり、口伝によって伝わった物がおおいようだ。
河内の女子って何者だろう。