雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

応劭(笑)

後漢書』列伝巻四十八、応奉伝、附応劭
中平二年,漢陽賊邊章、韓遂與羌胡為寇,東侵三輔,時遣車騎將軍皇甫嵩西討之。嵩請發烏桓三千人。北軍中候鄒靖上言:「烏桓衆弱,宜開募鮮卑。」事下四府,大將軍掾韓卓議,以為「烏桓兵寡,而與鮮卑世為仇敵,若烏桓被發,則鮮卑必襲其家。烏桓聞之,當復弃軍還救。非唯無益於實,乃更沮三軍之情。鄒靖居近邊塞,究其態詐。若令靖募鮮卑輕騎五千,必有破敵之效」。劭駮之曰:「鮮卑隔在漠北,犬羊為羣,無君長之帥,廬落之居,而天性貪暴,不拘信義,故數犯障塞,且無寧歲。唯至互巿,乃來靡服。苟欲中國珍貨,非為畏威懷紱。計獲事足,旋踵為害。是以朝家外而不內,蓋為此也。往者匈奴反叛,度遼將軍馬續、烏桓校尉王元發鮮卑五千餘騎,又武威太守趙沖亦率鮮卑征討叛羌。斬獲醜虜,既不足言,而鮮卑越溢,多為不法。裁以軍令,則忿戾作亂;制御小緩,則陸掠殘害。劫居人,鈔商旅,噉人牛羊,略人兵馬。得賞既多,不肯去,復欲以物買鐵。邊將不聽,便取縑帛聚欲燒之。邊將恐怖,畏其反叛,辭謝撫順,無敢拒違。今狡寇未殄,而羌為巨害,如或致悔,其可追乎!臣愚以為可募隴西羌胡守善不叛者,簡其精勇,多其牢賞。太守李參沈靜有謀,必能奬窅得其死力。當思漸消之略,不可倉卒望也。」韓卓復與劭相難反覆。於是詔百官大會朝堂,皆從劭議。

中平二年(185年)のこと、涼州で起きた辺章・韓遂の反乱が首都圏三輔地方にまで飛び火した。
車騎将軍皇甫嵩が討伐することになるもそこでひとつの議論が起こった。
というのも当時兵は異民族に頼ることが多かったのだが、どの異民族にするかで議論になったのである。(以下超意訳)
皇甫嵩(左車騎将軍)「烏桓三千人をお願いします。」
鄒靖(北軍中候)「烏桓は雑魚。鮮卑にすべき。」
韓卓(大将軍掾)「鄒靖に鮮卑を募兵させれば勝ち確定」
応劭(車騎将軍何苗掾)「異議ありッ!!鮮卑ヤバイ。暴力的だし信義も無い。むかしむかし鮮卑を徴兵したことがあったらしいけど、軍令で取り締まれば乱をおこすし、ゆるめれば掠奪する始末。マジでぐうの音もでない畜生だったようだよ。というわけで隴西の羌胡の中から反乱に参加していない勇敢なのを募るといいと思うよ。隴西太守の李参は冷静沈着で謀があり、必ず死力を尽くしてくれるさ!(ドヤァ」
韓卓「ぐぬぬ……。」
こうして、応劭さんの議が満場一致で可決されたという。



なお、討伐は失敗した模様。


そして、

後漢書』列伝巻七十二、董卓
三年春,遣使者持節就長安拜張温為太尉。三公在外,始之於温。其冬,徴温還京師,韓遂乃殺邊章及伯玉、文侯,擁兵十餘萬,進圍隴西。太守李相如反,與遂連和,共殺涼州刺史耿鄙。

翌中平三年(186年)春、皇甫嵩に代わり辺章・韓遂らを討伐した張温であったが、韓遂は仲間割れか辺章ら同胞を殺害し十万余りの兵で隴西を包囲した。隴西太守の李相如は漢に反して韓遂と連合し、涼州刺史耿鄙を殺した。



この隴西太守李相如って応劭の言葉に出てくる冷静沈着で謀ありの李参じゃなかろうか。
冷 静 に 判 断 し た 結 果 が こ れ だ よ 。
「僕自身漢王朝を出ていく喜びもあった」
「いなくなって初めてその存在の大切さみたいなものに気付くんじゃないですか」*1
みたいなことを言ってそうだね。


ちょっと抜けたところも応劭さんのいいところだね(ニッコリ