雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

張魯の殺した「漢使」とは何か&漢中太守蘇固についての妄言

きのうツイートした話を再利用。

三国志』巻三十一 劉焉伝
張魯母始以鬼道,又有少容,常往來焉家,故焉遣魯為督義司馬,住漢中,斷絕谷閣,殺害漢使。焉上書言米賊斷道,不得復通,又託他事殺州中豪強王咸、李權等十餘人,以立威刑。

三国志』の劉焉伝には「魯をして督義司馬と為し、漢中に住め、谷閣を断絶し、漢使を殺害せしむ。」
とあり、通常、「張魯を督義司馬とし、漢中にとどまらせ、長安への道路を断絶させ、漢の使者を殺害させた。」と解釈される。


この解釈に一つ疑問がある。
このころ張魯がやったことの一つに漢中太守殺害があるのだが、この解釈ではではそこに全く触れられてないことになってしまうのだ。
「漢の使者を殺害した」と解釈される「殺害漢使」とはすなわち「漢中太守を殺害した」という意味なのではないだろうか。


漢使と書かれるように、使者的な意味合いを持った漢中太守であったのかもしれない。
ちょうど董卓に政権が移った頃であり、不穏な益州の監視の役目を負って董卓に任命されたとも考えられる。
この頃、後に董卓の腹心となる蔡邕も巴郡太守に任命されているのもその意味合いがあったんじゃなかろうか。


張魯に殺された漢中太守は扶風出身の蘇固という人物であった。
扶風の蘇氏は後漢では蘇章とその兄の曾孫の蘇不韋という人物が有名である。
蘇不韋は、宦官派によって父を殺され、同じく宦官派段熲との対立で一門皆殺しになっている。
蘇固もその一族であったかもしれない。誅されない程度に遠い感じの。


董卓は清流派人士を重用しようと試みている。
この蘇固の登用もそのような背景があったとは考えられないだろうか。まあ蘇氏の場合直接的に宦官は関係ないのだが。


妄想だろうし、最初の話はぶっちゃけ重箱の隅ネタだよなあと思いつつおしまい。