漢末輔臣賛、陰脩
北海人雲子撰『漢末輔臣賛』十巻*1
『漢末輔臣賛』陰脩
少府識人、擢用俊秀、光明赫赫、賛陰少府
陰脩字元基、南陽新野人。蓋陰識之後也。漢末為潁川太守、挙五官掾張仲方正、察功曹鍾繇・主簿荀彧・主記掾張礼・賊曹掾杜祐・孝廉荀攸・計吏郭圖為吏。後為少府、董卓遣脩等之関東、譬解諸侯、為袁術所執殺。
少府は人を見る目があり、俊秀を抜擢し、その光は赫赫たるものだった。陰少府をたたえる。
陰脩は字を元基といい南陽新野の人である。たぶん(後漢初の功臣)陰識の後裔なのであろう。漢末に潁川太守となり、五官掾の張仲を方正*2に挙げ、功曹の鍾繇・主簿の荀彧・主記掾の張礼・賊曹掾の杜祐、孝廉の荀攸・計吏の郭図を吏として推挙した。*3後、少府となり、董卓は陰脩等を関東に派遣して、関東諸侯(反董卓連合)を解散させようとしたが、袁術に捕らえられ、殺された。
陰脩、陰循とも書かれる人。
鍾繇や荀彧、荀攸、そして郭図という後漢末〜三国にかけての英雄達をとりたてた潁川太守。
その末路は董卓の命で袁術のもとに派遣されて殺害されるという悲惨なもの。
王匡は同様に使者の胡母班を殺したため、胡母班の遺族と曹操とによって攻め殺された。
袁術も陰脩の故吏と協力した曹操のために破られたともいえる。
曹操の名望はもしかしたらこういう所で高まってたのかもしれない。