雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

東州人居住区と劉焉&劉璋の兵制

『華陽国志』巻三 蜀志
其大江,自湔堰下至犍為有五津:始曰白華津;二曰里津;三曰江首津;四曰渉頭津,劉璋時,召東州民居此,改曰東州頭;五曰江南津。

訳:
長江には湔水の堰から犍為に至るまでに五つの津(=渡し場)があった。始めの一つは白華津、二つ目は里津、三つ目は江首津、四つ目は渉頭津といい、劉璋の時、東州人をここに居住させたので東州頭と改めた。五つ目は江南津といった。

東州人といえば、当然劉焉&劉璋の主力部隊、東州兵のことであると思われる。
いつ移住させたのかを推測してみる。

三国志』巻三十一 劉璋伝 注引『英雄記』
先是,南陽、三輔人流入益州數萬家,收以為兵,名曰東州兵。璋性寬柔,無威略,東州人侵暴舊民,璋不能禁,政令多闕,益州頗怨。趙韙素得人心,璋委任之。韙因民怨謀叛,乃厚賂荊州請和,陰結州中大姓,與俱起兵,還撃璋。蜀郡、廣漢、犍為皆應韙。璋馳入成都城守,東州人畏韙,咸同心并力助璋,皆殊死戰,遂破反者,進攻韙於江州。韙將龐樂、李異反殺韙軍,斬韙。

訳:
南陽・三輔人数万家が益州流入してきたので、集めて兵とし、東州兵と名付けた。劉璋は性格がゆるふわで威に欠けたので、東州人が蜀のもとの民衆に横暴なふるまいをしても、それを取り締まることができず、益州は怨嗟の声に満ちあふれた。趙韙はもともと人心を得ており、劉璋も信任していた。趙韙は民衆の怨嗟を背景に謀反を計画すると、荊州に厚く賄賂を送り講和し、ひそかに益州の有力者たちと結び、ともに兵を起こし、劉璋を攻撃した。蜀郡、広漢郡、犍為郡はみな趙韙に呼応した。劉璋成都城に入り守った。東州人は趙韙を恐れ、みな力をあわせて劉璋を助け、死闘を繰り広げ、最終的に反乱軍を破り兵を進め江州で趙韙を攻めた。趙韙の将軍龐楽と李異は趙韙に反して趙韙を斬った。

趙韙の反乱までは東州兵を統御出来ていなかったと書かれている。
この趙韙の反乱を機に東州兵の掌握に成功したのであろう。
住民の移住は強権の発動であるから統御出来ていない状態で可能とは思えない。
東州人を渉頭津へ移住させたのはこの反乱の後ではなかろうか。


一箇所に集めることで監督が容易になる上、他地域の益州の豪族達の領域を侵す可能性がなくなることで益州人士の不満をなくす意味もあったのかもしれない。


住民をある一地域に移住させ、そこから兵をとる兵制は兵戸制にみられる。
兵戸制は簡単に言えば、兵士を供出する家(=兵戸)と農業生産を担う家を分ける体制、である。
要するに兵農分離ってこと。兵戸は親が死ねば子が、兄が死ねば弟が兵役を負った。
一般的に曹操青州兵がはじまりとされる。


劉焉&劉璋には東州兵の他に青羌兵や叟兵という異民族部隊があった模様であり、完全な兵戸制だったかはわからないが、それに近い体制をとっていたんじゃないかと思われる。白水軍ってのももしかしたらこの類かも。
まあ異民族部隊は公孫瓉や袁紹ももってるし、兵戸制的なシステムは後漢でも羽林だとか赤甲兵みたいのに見られるからなにがすごいっていうこともないんだけど。
まあ劉焉&劉璋も結構ちゃんとした兵制を整えてたということを覚えておいてね☆