雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

下軍校尉鮑鴻の最期

袁紹曹操・淳于瓊を含む豪華メンバーでみんな大好きな西園八校尉。
霊帝が私財を投じて中平五年(188)八月に設立した。
同年十一月にその一員、下軍校尉の鮑鴻が同年四月に起きた汝南葛陂の黄巾反乱の討伐に差し向けられている。
んでその鮑鴻、下軍校尉になる前は屯騎校尉であり、中平元年(184)の涼州の乱では董卓とともに戦っている。
軍事的経験も豊富だったのだろう。


閑話休題
さて鮑鴻さん、黄巾反乱鎮圧の翌中平六年(189)三月に獄死したという。

後漢書』本紀巻八、霊帝
(中平六年)三月、(略)下軍校尉鮑鴻下獄死。

この翌月、霊帝が死んで後継者争いも起こっているので、なんらかの政変に巻き込まれたのかと思った。
しかし、『後漢紀』に次のようにある。

後漢紀』巻二十七、献帝
黄琬(略)徴為豫州牧。値黄巾陸梁,民物凋弊,延納豪俊,整勒戎馬,征伐群賊,威聲甚震。是時上遣下軍校尉鮑鴻征葛陂賊,鴻因軍徴發,侵盜官物,贓過千萬。琬乃糾奏其姦,論鴻如法。

訳:
黄琬は徴用されて豫州牧となった。(豫州で)黄巾が跳梁跋扈(葛陂の黄巾反乱)に遭い、民衆は疲れ衰えていた。(黄琬は)豪傑俊英を迎え入れ、軍馬を訓練し、賊を征伐し、威信を震わせた。この時、霊帝は下軍校尉の鮑鴻を葛陂賊を征伐に向かわせていたが、鮑鴻は軍の徴発を利用して官有物を横領し、不正に得た物は一千万銭以上にもなった。黄琬はその罪を奏上し、鮑鴻は法に従って罪せられた。

鮑鴻は官有物の横領の罪で罰せられたというのだ。
後漢では任尚という人が軍糧の横領で棄市(通常の死罪)となっており*1、魏でも棄市であったようだ*2


このように重い罪であったが、鮑鴻は棄市とは書かれておらず「下獄死」とあるため、収監されて罰せられる前に死んだのだろう。
当時の獄は取り調べという名の拷問やら何やらで相当過酷な環境だったっぽいので下獄死とはあっても実際拷問死とか自殺とかでほとんど刑死みたいなもんだったかもしれない。


話は変わるが、ここで面白いのは、豫州牧である黄琬が鮑鴻を弾劾していることである。
牧や刺史は管轄郡県の太守県令のみならず、中央から派遣された軍人でも、管轄州で行動している者なら弾劾することが可能だったのだ。

*1:後漢書』鄧騭伝:後(任)尚坐斷盜軍粮,檻車徵詣廷尉。/『後漢書』西羌伝:任尚與遵爭功,又詐筯首級,受賕枉法,臧千萬已上,檻車徵棄市

*2:三国志』鮑稃伝:太子郭夫人弟為曲周縣吏,斷盜官布,法應棄市。