雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

[百度百科]訳出百度百科。蜀漢兵制。

はじめに

百度百科に「蜀漢兵制」なる面白い項目があったので訳出。誤訳多々あると思いますがお許しください! なお、この項の信憑性などは不明。話半分で読んでね。
各章タイトルは雲子による。

蜀漢兵制概略

蜀漢の中央軍は軍師将軍を一人から二人置き、国のトップの軍事総司令官である。五軍(中・前・後・左・右の五軍)の組織系統は完全に同じではない。
中  軍:護軍・監軍・軍師・都護・領軍・典軍(各一人)
前・後軍:護軍・監軍・軍師・領軍・典軍(各一人)
左・右軍:護軍・監軍・都護(各一人)
三国志』関張馬黄趙伝によると前後左右軍の司令官はそれぞれ前将軍・後将軍・左将軍・右将軍だが、中軍の司令官は護軍である。
王平・劉敏・姜維の伝によると前後左右の四軍は常に護軍あるいは監軍がおのおのの軍を統率した。

蜀の五軍

蜀漢の兵制はだいたい魏と同じだが、その特殊な点は中央軍である。『歴代兵制』はいう。
「蜀は五軍を置き、その左・右将軍・督軍・護軍が一人、中軍は監軍・護軍・典軍・参軍が各一人、前軍は将軍・監軍・護軍・督軍が各一人、後軍は督軍・将軍が一人で兼ねる。その将校はほぼ漢と同じ。」
五軍は前・後・左・右・中軍である。中軍は曹魏と同じでしかも宿衛部隊でもある。前後左右四軍はほぼ曹魏の外軍と同じ。
〔雲子注:ここから一章と全くおなじ事を繰り返してるので、少しカット〕
これによると*1、前将軍などの官号は結局、護軍の別称かまたは昇進した号、あるいは同時期の官職ではないのだ。さらなる考察が待たれる。

蜀の軍隊下部

蜀の下部の軍隊はたくさんの異なる称号がある。『歴代兵制』いわく
「兵に突将・無前・賨叟・青羌・散騎・武騎の区別があり、多分全く蜀人を用いなかったのだろう。」
劉璋の時、三輔の流民数万を収めて兵とし東州兵と号した。」
ここで挙げられている所はまだ不完全で王欣夫『補三国兵志』の統計によると、蜀には以下の称号の下部の軍隊があった。
曲長:漢の軍制にもともと部と曲との編制がある。蜀には曲長があったので、部には曲があった。
屯将:蜀には屯将がいたので屯があった。
突将:突撃する軍隊の将領とすれば、蜀軍は専門の前鋒部隊がいたのだ。
無前・無当:この二つは共に一つの精強な部隊を組んだのかもしれない。
飛軍:青羌を主とする羌族の部隊で五部に分かれていた。
虎歩:精強な歩兵部隊。
虎騎:精強な騎兵部隊。
散騎・武騎:騎兵部隊。
白眊:白い羽毛を飾りにする少数民族で組織。
賨叟:賨人(湖南・四川一帯の少数民族)で組織。
夷兵荊州一帯の少数民族で組織。
これらの称号より見いだせるのは、蜀漢はほとんど蜀中の漢人に兵を担当させず、大量の異民族を兵とし、飛軍・青羌・白眊・賨叟・夷兵ら異民族部隊を編制したということだ。
東州兵の状況より他に見いだせることは、蜀漢が外部からの流民で軍隊を組織したことだ。

おしりに

この後はなぜか孫呉の兵制が続く。
後日訳すことがあるかもしれないし、ないかもしれない。


さて、この項を読んでの感想。
一般的な軍職・用語と固有の部隊名の区別が行われてない気がする。
曲長・屯将は漢以来の軍職。
夷兵ってのはべつに固有の部隊名じゃなくて、「異民族の兵」っていうくらいの意味じゃないかなぁ。

三国志』巻五十八 陸遜
遜遣將軍李異、謝旌等將三千人,攻蜀將袪晏、陳鳳。異將水軍,旌將歩兵,斷絕險要,即破晏等,生降得鳳。又攻房陵太守鄧輔、南鄉太守郭睦,大破之。秭歸大姓文布、鄧凱等合夷兵數千人,首尾西方。

「秭歸の大姓文布・鄧凱等は夷兵数千人を合わせて西方を首尾す。」という風に出てくるんだけど、部隊名として書かれてるようには見えない気がする。
ただ、軍隊を大いに異民族に頼っていたというのには同意。


突将については以前書いたという露骨な宣伝


余談だが、麋竺の孫の麋照は虎騎監、南蛮制圧で投降した孟琰が虎歩監となっている。
麋竺から麋照まで弓馬に巧みだったというから、麋照の率いた虎騎は騎射がうまかったのかしらね。
突将は騎馬突撃部隊で虎騎は騎射部隊ってことにしよう。そうしよう。
虎騎監・虎歩監の例に倣い、各部隊のトップが〜監だとすると、無前監、無当監、飛軍監かー。なかなかかっこいいかも☆

*1:一章の最後の文から続く