李信と斉&楚
まーたリサイクル更新。*1
『太平御覧』巻四百三十七、人事部七十八所引『厳尤三将論』
王翦為秦將滅燕,燕王喜奔逃東夷。秦王曰:「齊楚何先?」李信曰:「楚地廣,齊地狹,楚人勇,齊人怯,請先從事於易。」*2
戦国末期、王翦が燕を滅ぼした。
秦王(後の始皇帝)は斉と楚のどちらを先に討つべきかとキングダムで有名な李信にたずねた。
李信は言う。「楚は広く、斉は狭い。楚の人は勇ましく、斉の人は臆病だ。先に簡単な方(=斉)からやっちゃいましょう。」と。
なお、李信の意見は取り入れられず斉より先に楚を討つことになった模様。
李信が兵二十万でいいと言って失敗し、代わった王翦が兵六十万で楚を滅ぼしたというのは有名なお話。
とはいえ楚の滅亡後に李信は斉を滅ぼし汚名返上するのだが。
はじめから、李信は斉を討つべきといっていた。
楚攻撃の失敗は、それを採用しなかった秦王さんサイドに問題があるのではないか。
どうでもいいが、この三将論、隋書などの経籍志には『三将軍論』一巻とある。
そしてこの厳尤は後漢明帝の諱を避けて漢書でそう記されるが、本名は荘尤であり、王莽に仕え大司馬、納言大将軍、さらに更始帝に対抗して称帝した劉望に帰順しここでも大司馬となった大物である。
異民族討伐などに活躍し、赤眉などの反乱鎮圧に従事、妥当な献策を繰り返すものの容れられずに最終的には敗死の末路をたどった。
知略有る悲運の名将であった。