牛金毒殺の時期
久しぶりの更新。
野球シーズンでブログはオフシーズンだからしゃーなし。
『晋書』によると、石に刻まれた「牛(牛氏)が馬(司馬氏)の後を継ぐ」という文を信じた司馬懿によって牛金は毒殺されたという。
『晋書』巻六、元帝紀
初,玄石圖有「牛繼馬後」,故宣帝深忌牛氏,遂為二榼,共一口,以貯酒焉,帝先飲佳者,而以毒酒鴆其將牛金。而恭王妃夏侯氏竟通小吏牛氏而生元帝,亦有符云。
この『晋書』では「初め」とあり、毒殺時期は不明である。
『太平御覧』に引かれた王隠の『晋書』(上の『晋書』とは別物、現存せず各書への引用がわずかに残る)には次のようにある。
『太平御覧』巻七百六十一 器物部六、所引王隠『晋書』
宣帝既滅公孫淵還。作榼兩口,二種酒,持著馬上。先飲佳酒,塞口;而開毒酒與牛金,金飲而死。
ここでは牛金の毒殺を司馬懿が公孫淵を滅ぼし還った頃のこととしている。
つまり牛金の死亡時期は238年頃ということになりそうだ。
余談だが、毒殺の仕方も『晋書』と『晋書』で若干ちがう(まぎらわしい書き方)
『晋書』では飲み口が一つある榼(酒器の一種、)を二つつくって、まず司馬懿が毒の入っていない酒を飲み、次に牛金が毒酒を飲んで死亡したことになっている。
一方王隠『晋書』では飲み口が二つある榼をつくり、二種類の酒を注いだとある。その後は同じように司馬懿が先に飲み、牛金が後に毒酒を飲んだ。
王隠のには、これを馬上で行ったとあり、もしかしたら公孫淵討伐の帰路で行われたのかも。