雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

後漢の学生運動

後漢代、太学生たちはしばしば集団行動を起こしていた。

後漢書』列伝第五十五、皇甫規伝
其年冬,徵還拜議郎。論功當封。而中常侍徐璜、左悺欲從求貨,數遣賓客就問功狀, 規終不荅。璜等忿怒,陷以前事,下之於吏。官屬欲賦斂請謝,規誓而不聽,遂以餘寇不絕,坐繋廷尉,論輸左校。諸公及太學生張鳳等三百餘人詣闕訟之。會赦,歸家。

皇甫規は封侯にあたいする功績をたてたが、宦官に賄賂を送らなかったため、宦官は過去のことを持ち出して罪におとした。
皇甫規は将作大匠の下で労役する刑をうけた。
それに対して、公卿と太学生の張鳳ら三百人余りが朝堂に詣でて赦免を要求した。
その後、皇甫規は赦免された。

後漢書』列伝第三十三、朱穆伝
永興元年,河溢,漂害人庶數十萬戶,百姓荒饉,流移道路。冀州盜賊尤多,故擢穆為 冀州刺史。州人有宦者三人為中常侍,並以檄謁穆。穆疾之,辭不相見。冀部令長聞穆濟 河,解印綬去者四十餘人。及到,奏劾諸郡,至有自殺者。以威略權宜,盡誅賊渠帥。舉劾 權貴,或乃死獄中。有宦者趙忠喪父,歸葬安平,僭為璵璠、玉匣、偶人。穆聞之,下 郡案驗。吏畏其嚴明,遂發墓剖棺,陳尸出之,而收其家屬。帝聞大怒,徵穆詣廷尉,輸作左校。太學書生劉陶等數千人詣闕上書訟穆曰:「伏見施刑徒朱穆,處公憂國,拜州之日,志清姦惡。誠以常侍貴寵,父兄子弟布在州郡,競為虎狼,噬食小人,故穆張理天網, 補綴漏目,羅取殘禍,以塞天意。由是內官咸共恚疾,謗讟煩興,讒隙仍作,極其刑讁,輸作左校。天下有識,皆以穆同勤禹、稷而被共、鯀之戾,若死者有知,則唐帝怒於崇山,重華忿 於蒼墓矣。當今中官近習,竊持國柄,手握王爵,口含天憲,運賞則使餓隸富於 季孫,呼噏則令伊、顏化為桀、跖。而穆獨亢然不顧身害。非惡榮而好辱,惡生而好 死也,徒感王綱之不攝,懼天網之久失,故竭心懷憂,為上深計。臣願黥首繋趾,代 穆校作。」帝覽其奏,乃赦之。

同様に朱穆が将作大匠の下での労役刑を受けた際にも、太学生の劉陶ら数千人が朝堂に詣でて上書し赦免を要求した。
帝は上書を見て朱穆を赦免した。


このように、学生達は集団行動でなんらかの要求をし、その要求は受け入れられることが多かった。
党人たちと連携することもあったようである。


これに対し、宦官は面白くなかったようである。

後漢書』紀第八、桓帝
宦官諷司隸校尉段熲捕繋太學諸生千餘人。
[一]時有人書朱雀闕云「天下大亂,公卿皆尸祿」故捕之。事見宦者傳。

後漢書』列伝第六十八、曹節
熹平元年,竇太后崩,有何人書朱雀闕,言「天下大亂,曹節、王甫幽殺太后,常侍侯覽多殺黨人,公卿皆尸祿,無有忠言者。」於是詔司隸校尉劉猛逐捕,十日一會。猛以誹書言直,不肯急捕,月餘,主名不立。猛坐左轉諫議大夫,以御史中丞段熲代猛,乃四出逐捕, 及太學游生,繋者千餘人。節等怨猛不已,使熲以它事奏猛,抵罪輸左校。朝臣多以為言,乃免刑,復公車徵之。

太后が死んだ頃、朱雀門に政府批判的な落書きが発見された。
宦官の曹節は犯人不明であるにも関わらず、司隷校尉の段熲に命じて太学生千人あまりを逮捕させた。



党人VS宦官(+皇帝)を考える上で太学というのは重要な鍵となったりならなかったりするかもしれないような気もしなくもない。