雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

郤正の祖父郤倹の過去?

後漢代、宦官と清流派の争いが激しさを増し、太学は清流派に与して抵抗勢力となっていた。
霊帝はそれに対抗するため、あらたに鴻都門学という学校を設立した。
文章の才ある者や、書道の上手い人などが集められた鴻都門学であるが、「小人の才」として士大夫から批判を浴びた。
鴻都門学に属した人々についての情報はほとんどないが、鴻都門学批判の中に幾人かの名前が登場する。

後漢書』第四十四、楊震伝附、楊賜伝
又鴻都門下,招會羣小,造作賦說,以蟲篆小技見寵於時,如驩兜共工更相薦說,旬月之輭,並各拔擢,樂松處常伯,任芝居納言。郄儉、梁鵠俱以便辟之性,佞辯之心,各受豐爵不次之寵……略

「楽松は常伯(侍中の雅名)、任芝は納言(尚書の雅名)となり、郄倹や梁鵠は媚へつらい、佞言によって爵位や破格の寵愛を受けている。云々」
ここに出てきた郄倹という人物。

康煕字典』酉集下、邑字部
郄:《集韻》《正韻》𠀤乞逆切,音𨻶。與郤同。地名。又姓。

康煕字典』によると郄とは郤と同じらしい。
つまり郄倹=郤倹であるということである。


蜀に仕えた郤正の祖父は郤倹という。益州刺史となったが益州黄巾の反乱で殺された。
税金が煩瑣だったらしく、劉焉が逮捕しに行ったのがこの郤倹である。
鴻都門学の郤倹と益州刺史郤倹が同一人物であるという明確な証拠はない。


でも

三国志』巻四十二、郤正伝
正字令先,河南偃師人也。祖父儉,靈帝末為益州刺史,為盜賊所殺。會天下大亂,故正父揖因留蜀。揖為將軍孟達營都督,隨達降魏,為中書令史。正本名纂。少以父死母嫁,單煢隻立,而安貧好學,博覽墳籍。弱冠能屬文,入為祕書吏,轉為令史,遷郎,至令。

郤正は文才あって秘書令になっているし、その父郤輯は魏に仕え中書令史になっている。
中書令史は文才あるものが就く官位であり、郤氏が文才の家柄であったことが窺える。
文才が求められる鴻都門学に属した郤倹が郤正の祖父である可能性は結構高いのではなかろうか。


ちなみに、先の鴻都門学批判の中にでてくる梁鵠は中平元年の涼州刺史である。
郤倹も同じ頃益州刺史となっており、(もし鴻都門学郄倹=益州刺史郤倹だとすれば)皇帝(および宦官)派である鴻都門学出身者を刺史として地方を監視させる体制をつくろうとしてたりしたらおもしろいけど多分妄想。