雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

張魯、張脩、馬相の乱

また再利用更新。
そのときのツイートまとめ。たぶんブログ記事より読みやすい気がするw
http://togetter.com/li/449154
五斗米道の始まりは結構謎に包まれている。一般には張魯の祖父張陵がはじめたとされているが、張脩という人物が始祖という説もある。そのあたりをちょっと整理してみる。

張脩と馬相の乱

後漢書』本紀第八、霊帝紀、中平元年条
(中平元年)秋七月,巴郡妖巫張脩反,寇郡縣。
注:劉艾紀曰:「時巴郡巫人張脩療病,愈者雇以米五斗,號為『五斗米師』。」

中平元年(184)巴郡で張脩が反乱し郡県を荒らしたという。
注に引く劉艾の『献帝紀』によると、張脩は「五斗米師」と号したという。
この張脩に関しては『典略』に詳しい。

三国志』巻八、張魯伝、注引『典略』
典略曰:熹平中,妖賊大起,三輔有駱曜。光和中,東方有張角,漢中有張脩。駱曜教民緬匿法,角為太平道,脩為五斗米道。(略)後角被誅,脩亦亡。及魯在漢中,因其民信行脩業,遂筯飾之。教使作義舍,以米肉置其中以止行人;又教使自隱,有小過者,當治道百步,則罪除;又依月令,春夏禁殺;又禁酒。流移寄在其地者,不敢不奉。

光和年間(178−184)、東には張角、漢中には張脩という妖賊がおこったという。ここでも張脩が五斗米道を興したとしている。
さらに、張脩が滅んだのち、張魯が漢中で張脩の教団システムなどを真似したという。
この『後漢書』と『典略』の記述をあわせて考えると、光和年間(178−184)に漢中で始まった張脩の五斗米道は、中平元年(184)に巴郡にまで影響力を伸ばしたということなのであろう。
ちなみに、後の張魯五斗米道の勢力範囲もこの漢中&巴郡であり、黄権劉備に対して「漢中を失えば三巴(旧巴郡)は保てない」と進言している。漢中と巴郡は一体であるといっても過言では無かった。


このころの益州では、益州黄巾の馬相の乱が起こっていた。

後漢書』本紀第八、霊帝紀、中平五年条
益州黄巾馬相攻殺刺史郗儉,自稱天子,又寇巴郡,殺郡守趙部,益州從事賈龍擊相, 斬之。

馬相の乱は『後漢書』において中平五年の条にあるが、『華陽国志』はこの乱の発生を中平元年としている。
おそらく、中平五年にかかるのは、賈龍が馬相を斬り、乱を鎮圧したという出来事なのであろう。
この乱の中で、馬相は、巴郡を荒らさせている。
この巴郡を荒らしたのが、中平元年の張脩の乱という可能性もある。馬相と連合していたのかもしれない。


張脩は光和年間に漢中で五斗米道を興し、中平年間の混乱のなかで巴郡まで勢力を広げた。

張魯

では次に、張魯である。

後漢書』列伝第六十五、劉焉伝、附張魯
魯字公旗(祺)。魯字公旗。初,祖父陵,順帝時客於蜀,學道鶴鳴山中,造作符書,以惑百姓。受其道者輒出米五斗,故謂之「米賊」。陵傳子衡,衡傳於魯,魯遂自號「師君」。

張陵―張衡―張魯の本拠はもともと蜀郡の鶴鳴山であった。
蜀郡であったからこそ張魯の母は蜀郡中に州府をおいた劉焉の元に行き来したのであろう。
おそらく、この益州には漢中と巴郡を勢力下においた張脩の集団――元祖五斗米道――と、蜀郡を本拠とした張陵―張衡―張魯と続く教団、二つの道教集団があった。
188年に益州入りした劉焉は官位を用いて巧みに懐柔した。
そして蜀郡から張魯を漢中に送り漢中の張脩と共に漢中太守を攻撃させた。
その後、張魯は張脩を殺害し、張脩の集団を吸収し、五斗米道を名乗ったのだろう。

まとめ

1,五斗米道は光和年間に張脩により始まり中平年間までに漢中・巴郡を影響下においた。
2,張魯は蜀郡で五斗米道とはまた別の教団を指導していた。
3、劉焉は張魯と張脩に漢中太守を殺させたが、その後張魯は張脩を殺し、教団を吸収した。