橋玄の子?
『水経注』巻二十三、汳水
(睢陽)城南二里、有『漢太傅掾橋戴墓碑』。戴字元賓、梁國睢陽人也。睢陽公子、熹平五年立。
睢陽城の南二里に、熹平五年(176年)に建立された、漢の太傅掾*1、橋戴という人の墓碑があったという。橋戴は字を元賓といい、梁国睢陽の人で睢陽公の子であったという。
睢陽公って一体なんなのか?
楊守敬の疏(水経注のさらに注)は、橋玄の子か? としながらも、『後漢書』本伝に睢陽公に封ぜられた記述もなく、さらに、子は橋羽という人が任城相になったことしか書かれず、橋戴のことは載っていないとかなり自信なさげである。
後漢は基本的に公の封爵はなかった気がするので*2、睢陽公といっても爵位ではなく敬称なのかもしれない。
橋玄がそういう敬称で呼ばれてたのかなあ
一体睢陽公とは誰なのか・・・。
追記)
反董卓連合でおなじみの東郡太守橋瑁は字を元偉という。
字の一字が共通しているな。世代的にも同世代やね。