雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

最強伝説応劭――彼が有名になりうる大きな理由――

前言、応劭の知名度向上を願って。

許可が出たのでだいぶ昔サークルの何かにのせた応劭礼賛の文章をそのまま載せるよ
ただのネタだよー!
ワードのコピペでふりがなが読みにくい感じになってるけどなおすの面倒だからヨロシク!
それじゃー行くよー!
4500字越えだけど読んでね(はぁと

一、はじめに

興(こう)平(へい)元年(一九四年)ある大事件が起きた。
曹操(そうそう)の父曹(そう)嵩(すう)がぽっちゃり系(笑)愛人とともに陶(とう)謙(けん)によって襲撃・殺害されたのだ。 *1
そのとばっちりを受けたかわいそうな人がいる。


応(おう)劭(しょう)だ。


彼は当時泰山(たいざん)太守(たいしゅ)として、泰山(たいざん)郡を統治していた。その治下、泰山(たいざん)郡華(か)県に曹操(そうそう)の父曹(そう)嵩(すう)は暮らしていた。
初平(しょへい)四年(一九三年)その華(か)県が陶(とう)謙(けん)に侵攻された。曹操(そうそう)は父を自らの元に保護しようとし、応(おう)劭(しょう)に曹(そう)嵩(すう)の送迎を依頼したのである。が、応(おう)劭(しょう)が到達する前に曹(そう)嵩(すう)は殺された。応(おう)劭(しょう)は処罰を恐れ、袁紹(えんしょう)のもとにとんずらしたのであった。めでたしめでたし。 *2
というわけで今回は皆さんご存じ「応(おう)劭(しょう)」という超ド級の大物を取り上げてみようと思う。
え、マイナーだって……?
うん……まあそうだね……。マイナーだね……。
某光栄さんのシミュレーションにも出てないし*3、マイナー人物をどんどん発掘していったあの某大戦さんにも今のところ見えない。
だが一つ言わせてもらいたい!
彼は今でこそマイナー。でもメジャーになり得る素質を秘めていると私は考えている。今回は名前だけでも覚えて帰ってもらいたいなと思います。いつか応(おう)劭(しょう)って名前覚えておいて本当によかった!と思う日が来るでしょう。多分。きっと。そのうち。

二、略歴

字数稼ぎ前置きが長くなったが、まず応(おう)劭(しょう)さんの略歴を見ていこう。
応(おう)劭(しょう)は字を仲瑗(ちゅうえん)*4といい、汝南(じょなん)郡南(なん)頓(とん)県の人である。彼の生まれた応(おう)氏は官僚一族であり、高祖父*5以来代々太守(たいしゅ)クラス以上の高官を勤めていた。
応(おう)劭(しょう)は子どもの時から勉学に打ち込み、博識であったという。孝(こう)廉(れん)*6に推挙の後、大将軍(だいしょうぐん)何(か)進(しん)の弟、車騎(しゃき)将軍(しょうぐん)何(か)苗(びょう)の属官に招かれる。
中平(ちゅうへい)二年(一八五年)に韓遂(かんすい)らが反乱を起こすと、朝廷では烏桓(うがん)*7から徴兵して対応することにした。しかし、「烏桓(うがん)は弱い。鮮卑(せんぴ)にしよう」という意見があり議論になった。このとき応(おう)劭(しょう)は鮮卑(せんぴ)派に対し、かつて徴兵した鮮卑(せんぴ)によって略奪が起きたことを例に挙げ、危険だから隴(ろう)西(せい)の羌(きょう)胡(こ)を徴兵すべきと反論した。百官会議で皆が応(おう)劭(しょう)の意見に賛成したという。


なお、反乱討伐は失敗した模様。


その後泰山(たいざん)太守(たいしゅ)となり、黄巾(こうきん)討伐(後述)に活躍。そして冒頭の曹(そう)嵩(すう)殺害事件により袁紹(えんしょう)の元へ。しかし、逃亡後も、『漢官(かんかん)儀(ぎ)』の著述や、『漢書(かんじょ)』などへの注釈を行うなど精力的に活動。
曹(そう)操(そう)の冀(き)州(しゅう)制圧前に亡くなった。

三、有名の条件

この略歴だけではあまりすごさが伝わらないかもしれない。
ここで少し話を変えて、メジャー武将の条件というものを考えてみよう。
この条件には大きく分けて三つの要素があると思う。
能力、エピソード、ネタ、である。
まず能力の点である。能力が高いと『三国演義』をはじめとする物語での出番が増える。さらには光栄のシミュレーションゲームや『無双』シリーズ、SEGAの『三国志大戦』等各種ゲームで活躍できる。能力があることによって露出が増え、知名度が上昇するという寸法だ。
わかりやすいのは諸葛(しょかつ)亮(りょう)(孔(こう)明(めい))である。そのスペックの高さから『三国演義』でも後半の主人公として変幻自在の神算で数々の強敵を葬っている。ゲームでの能力も高い。綺羅、星のごとく居並ぶ三国志の人物の中でも一、二を争う人気である。また、世間一般の認知度も高く、彼を題材にした書籍が数多く出版されている。インターネット上では孔(こう)明(めい)の罠が人々を奈落に落とす様子を見る事が出来る。
続いて二つ目の要素であるエピソード。それが故事などになっている場合、三国志と関係ない文章中に使われたり、国語で習ったりするため、三国志を知らない人も知っていることがある。
「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」という故事がある。諸葛(しょかつ)亮(りょう)が言いつけに背き敗北した愛弟子の馬謖(ばしょく)を処刑したというエピソードに由来し、私情を捨てて処分をおこなうこと、として現代日本でも時々使われる。馬謖(ばしょく)は史書上でもそんなに出番はないのだが、この故事によって大いに名を知られることとなった。まあ不名誉だけど。
最後にネタである。能力が高くなくてもパッとしたエピソードがなくてもここで挽回が可能な場合がある。
曹(そう)豹(ひょう)という人物がいる。史書でも『三国演義』でも特に見せ場はなく、斬られて終わりのかませという感じだ。だが光栄のシミュレーションゲームにおいて、あまりに能力が低かったことから有名になりファンクラブ的なものまでできていたという。劉備に敗北して斬られただけの韓(かん)玄(げん)も同様の理由で知名度が高い。

四、応劭(おうしょう)に秘められたもの

私は応(おう)劭(しょう)にはこの三要素のうち、特に能力の点で有名になるポテンシャルがあると考えている。
そこで彼が知勇兼備の人物であることを明らかにすべく、文と武の二つのポイントから彼を見てみたい。
まず武であるが、略歴で少し触れた黄巾(こうきん)討伐である。
これは初平(しょへい)二年(一九一年)のことである。黄巾(こうきん)の乱は鎮圧されたが、その後も数年にわたって残党やらなにやらが続々はびこっていたのである。
そんな状況の中、泰山(たいざん)郡に黄巾(こうきん)賊三十万人が押し寄せた。将軍職をもたない応(おう)劭(しょう)が率いることができるのは泰山(たいざん)郡の兵のみである。郡の兵はせいぜい数千人程度。たとえ黄巾(こうきん)賊三十万の中に輸送要員や兵士の家族なども含まれていたとしても、敵の戦闘要員が泰山(たいざん)兵に数倍していたことは想像に難くない。同集団と思われる三十万の黄巾(こうきん)賊は翌年、兗州刺史(えんしゅうしし)劉岱(りゅうたい)を敗死させており、彼らが烏合の衆であったとは言い難い。
応(おう)劭(しょう)はそんな敵相手に文武の官を率いて果敢に立ち向かう。斬首すること数千級、老弱*8の一万余を捕らえ、輜重二千両を獲得、賊を退却させ、郡に安寧をもたらした。
大勝利である。
余談だが、この時期三十万の黄巾(こうきん)賊が中国東部において活発に動いている。それら全てを同集団とするならば、この応(おう)劭(しょう)に敗れた集団はのちに青(せい)州兵(しゅうへい)として曹(そう)操(そう)軍の大きな力となる集団である。この集団は公孫瓉(こうそんさん)*9、応(おう)劭(しょう)に敗れた後、前述の通り劉岱(りゅうたい)を殺し、最終的に曹(そう)操(そう)の討伐を受け降伏する。
この三十万の黄巾(こうきん)賊への勝利は公孫瓉(こうそんさん)、曹(そう)操(そう)に匹敵するレベルの活躍といっても過言ではない。
 次に文の点である。武であれほどの活躍をしながらも実は彼の本分は武よりも文にある。その著作は、百三十六篇あったという。
応(おう)劭(しょう)は度重なる乱や遷都で漢王朝儀礼や制度などが失われるのを嘆き、『漢官(かんかん)礼儀(れいぎ)故事(こじ)』を著した。漢の滅び行くこと悟っていたのだろう。一種の使命感じみたものがあったのかもしれない。
また。漢の法令として編纂した『漢官(かんかん)儀(ぎ)』。その文章は歴代の様々な書に注として引かれており、今でも多くの箇所が参照可能だ。漢の官制についての基本史料の一つで、古来から今に至るまで漢の官職研究において重要な位置を占めている。
漢書(かんじょ)集(しっ)解(かい)』は漢代の歴史を記した正史の一つである『漢書(かんじょ)』に注釈をしたものであり、現行の中華書局『漢書(かんじょ)』にもそのまま残されている。「漢籍電子文献」*10を使って「応(おう)劭(しょう)」で『漢書(かんじょ)』内を全文検索すると千百三十カ所もヒットする。少なくとも千カ所を越える注釈を付けているのだ。
彼の著作をもう一つ紹介しよう。
『風俗通(ふうぞくつう)』である。これは事物の由来などを取り上げた書物で、「杯中(はいちゅう)の蛇(だ)影(えい)」*11という故事成語の出典だったり、七夕の彦星織姫伝説を記した最古の書物とも言われる。
筆者も高校のとき、漢文の授業で「杯中(はいちゅう)の蛇(だ)影(えい)」を習った。高校生が「こんな面白いエピソード書いた応劭さんステキ!」という声をあげていることが容易に想像できる気がしなくもないような気がしたりもしなかったりする。*12
故事、すなわちエピソードの点でも応劭(おうしょう)さんにはポテンシャルがある。
だが、そんな『風俗通(ふうぞくつう)』、名前をポータルサイトで検索するとなぜかいかがわしいウェブサイトばかりヒットするのである。まああれだ。いわゆる大人の階段だ。*13
このことはポイントの高いネタになりうるだろう。
能力だけでなくエピソード、ネタのポイントも入り、彼は有名の条件の三要素全てが揃った形となった。

五、一言

このように応(おう)劭(しょう)は文武の才ばかりでなく、エピソードの点でも、さらにはネタ的にも無限の可能性を秘めているのだ。
なのに、ゲームにもでないし小説でもスポットライトを浴びないというかわいそうな立ち位置である。
ここまでこの駄文を読んでくれた人の中に応(おう)劭(しょう)の魅力に気づいてくれた人が一人でもいれば幸いである。一緒に応(おう)劭(しょう)を広める活動にいそしんでいこう!
『風俗通(ふうぞくつう)』がネタとして流布するようになる日こそ応(おう)劭(しょう)が日の目を見る日であろうと個人的には思う。

*1:曹嵩と妾は垣を越えて脱出しようとしたが、愛人が太っていたために失敗、トイレに逃げて一緒に殺された。二世紀純愛物語。

*2:ここでは『三国志』巻一武帝紀の注に引く『世語』を参照したが、『三国志』本文や韋曜『呉書』には異なる記述がある。曹嵩の避難していた場所が違ったり、陶謙の部下が勝手に殺害したことになっていたりする。

*3:三国志11の時点で。12に期待。※2013/03/09雲子注:書いた当時は12発売前、結局12にも出なかった模様orz

*4:後漢書』では仲遠だが、その著書『風俗通義』や『劉寛碑碑陰故吏名』での署名で仲瑗となっておりそれに従う。

*5:高祖父応順は河南尹・将作大匠、曾祖父応畳は江夏太守、祖父応郴は武陵太守、父応奉は武陵太守・司隷校尉であった。まさに代々の二千石一族である。

*6:孝廉は漢代の人材登用制度、太守により各郡から若干名選ばれる。エリート官僚の第一歩

*7:烏桓および後述の鮮卑、羌胡は異民族

*8:原文でも老弱とある。弱者を殺さない応劭。真の漢(おとこ)である。

*9:初平二年(一九一)公孫瓉は二万の兵で三十万の黄巾党を破った。また曹操は劉岱の後を受け、兗州牧に就任。黄巾賊を撃破、そのなかから精鋭を「青州兵」として自軍に編入した。

*10:http://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/ihp/hanji.htm 二十五史をはじめとする中国史史料の全文検索が可能な台湾中央研究院歴史語言研究所のサービス。

*11:応劭の祖父が体験した話。部下が杯に映った弩を蛇と勘違いして病気になるも、誤解とわかり病気が治るという話。病は気からということ。

*12:想像できない。

*13:十八歳未満検索禁止!