雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

韓遂は衰退しました――漢末・魏初の涼州――

昔、東大さんとの合同誌にのせた文章を転載。
ワードのコピペでふりがなが読みにくい感じになってるけどなおすの面倒だからヨロシク!
全部で8400字くらい。
韓遂を中心に涼州軍閥について書いたもの。
ネタがまったくないのでしょーじきつまらん。一夜漬け的に書いたので、読み返すと意味のわからない箇所があるけどそのまま載せる。後漢書の巻数の書き方ミスったりもしてるし。
何かを書くときは時間に余裕をもってやりましょう。おっさんとの約束だよ☆ミ
それじゃーいくよー。

一、はじめに

 涼州軍閥(りょうしゅうぐんばつ)というと馬騰(ばとう)・馬超(ばちょう)・韓遂(かんすい)が特に知名度が高く、小説的に「旗本八旗(はたもとはっき)」*1 とされる諸将もそこそこ知られている。出来事といえば圧倒的に「潼関(どうかん)の戦い」が有名である。
しかし、どのような背景でその戦いが起こったのか、その後に涼州(りょうしゅう)にどうなったのか、こういったことは意外と知られていない。というわけで、この文章は後漢末から魏にかけての涼州(りょうしゅう)情勢を簡単にまとめることで、「潼関(どうかん)の戦い」以外でスポットライトのあたらない涼州軍閥(りょうしゅうぐんばつ)への理解を深めようというものである。

二、後漢期の涼州(りょうしゅう)情勢

 涼州(りょうしゅう)は後漢を通して異民族である羌族(きょうぞく)の反乱に悩まされてきた。朝廷は金城郡(きんじょうぐん)(設置当時は隴西郡(ろうせいぐん)令居(れいきょ)に護羌校尉(ごきょうこうい)を設置して反乱の予防・対応にあたらせた。軍事にかかる莫大な費用は王朝の経済を圧迫、涼州(りょうしゅう)放棄論が三度も建議されている。放棄策が採用されることはなかったが、前漢においては西方諸国との交流の玄関口となった涼州(りょうしゅう)も、後漢ではこのように大きな悩みの種となっていた。

三、中平(ちゅうへい)元年大反乱

 中平(ちゅうへい)元年(一八四)冬、羌族(きょうぞく)の一種、先零羌(せんれいきょう)が北宮伯玉(ほくぐうはくぎょく)(人名)・李文侯(りぶんこう)を将軍にたてて反乱を起こし、護羌校尉(ごきょうこうい)を殺した。北宮伯玉(ほくぐうはくぎょく)は湟中(こうちゅう)(地名:金城郡(きんじょうぐん)一帯を流れる湟水(こうすい)流域を指す)義従胡(ぎじゅうこ)である。義従(ぎじゅう)というのは、漢王朝に帰順した異民族という意味、公孫瓉(こうそんさん)配下の白馬(はくば)義従(ぎじゅう)が有名である。湟中(こうちゅう)義従胡(ぎじゅうこ)は月氏胡(げっしこ)という大月氏(だいげっし)の末裔の異民族であるらしい。
 北宮伯玉(ほくぐうはくぎょく)はさらに漢民族の有力者、韓遂(かんすい)と辺章(へんしょう)を拉致して軍の将帥とし、金城太守(きんじょうたいしゅ)を殺害。ちなみに『献帝春秋(けんていしゅんじゅう)』によると、韓遂(かんすい)はもともと韓約(かんやく)、辺章(へんしょう)はもともと辺允(へんいん)といったが、反乱に荷担したことで懸賞をかけられ、改名したという。*2
 さらに、この反乱の参加者にはかつて羌族(きょうぞく)の反乱を何度も鎮圧した破羌将軍(はきょうしょうぐん)段熲(だんけい)の配下だった者たちもいたらしく、これまでのような単なる羌族(きょうぞく)の異民族反乱ではなかった。以前には鎮圧側だったはずの帰服異民族(義従(ぎじゅう))や涼州(りょうしゅう)の漢民族までもが反乱側にまわるという、涼州(りょうしゅう)全土を巻き込んだ一大蜂起であったのである。
反乱勢力は中平(ちゅうへい)二年(一八五)、宦官誅殺を大義に掲げて、首都圏である三輔(さんぽ)地方(司隷(しれい)のうち西の三郡、右扶風(ゆうふふう)・左馮翊(さひょうよく)・京兆尹(けいちょういん))に侵入している。朝廷は皇甫嵩(こうほすう)&董卓(とうたく)を鎮圧に派遣するも失敗。三度目の涼州(りょうしゅう)放棄論はこのころに出されている。皇甫嵩(こうほすう)に代えて司空の張温(ちょうおん)を車騎将軍(しゃきしょうぐん)として派遣、なんとか三輔(さんぽ)から追い出すことに成功する。しかし、追撃には失敗して反乱軍を完全に潰滅させることはできなかった。
中平(ちゅうへい)三年(一八六)、韓遂(かんすい)は辺章(へんしょう)*3・北宮伯玉(ほくぐうはくぎょく)・李文侯(りぶんこう)を殺害、勢力を吸収すると隴西(ろうせい)を囲む。隴西(ろうせい)太守(たいしゅ)は韓遂(かんすい)と通じて涼州(りょうしゅう)刺史(しし)を殺害してしまう。当時涼州(りょうしゅう)刺史(しし)の部下であった馬騰(ばとう)は裏切って韓遂(かんすい)と連合、「合衆将軍」を自称した王国(人名)を盟主に推し立てる。彼らは三輔(さんぽ)地方を荒らし回り、中平(ちゅうへい)五年(一八八)に陳倉を囲んだが、董卓(とうたく)・皇甫嵩(こうほすう)によって撃破される。
韓遂(かんすい)等は王国(人名)を見棄て、今度は閻忠という人物*4を盟主にしようとするが、閻忠はそれを恥じて病死してしまう。閻忠の死後、涼州(りょうしゅう)の軍閥は互いに争いはじめ殺し合い、この大規模反乱は内部抗争の時代に突入する。

図一:後漢涼州・三輔

四、乱の原因と刺史(しし)

 刺史(しし)の失策・汚職がこの乱が起きた背景にあるようだ。
中平(ちゅうへい)元年、涼州(りょうしゅう)刺史(しし)は梁鵠(りょうこく)*5という人物であった。当時の武威太守(ぶいたいしゅ)は自分の一族の権勢をたよって貪婪なふるまいをしていた。刺史(しし)は本来そのようなものを監督するために置かれており、部下の従事が武威太守(ぶいたいしゅ)を弾劾しようとした。しかし、梁鵠(りょうこく)は武威太守(ぶいたいしゅ)の一族の権勢を恐れて、逆にその従事を殺そうとしたのである。
同年、刺史(しし)は交代し、後をついだ左昌(さしょう)は涼州(りょうしゅう)の乱鎮圧のための軍事費を着服、それを批判した蓋勳(がいくん)という人物を合法的に殺そうとして乱の盛んな地域に派遣した。
さらに同年、刺史(しし)は交代、次の刺史(しし)はこれまでのようなクズではないが、どうも理想主義的な所があった。今まさに乱が起こっているのに、今更、民衆を『孝経(こうきょう)』で教化しようとした。この方針にはさすがに朝廷もあきれて免官となってしまった。
その次の刺史(しし)、耿鄙(こうひ)は姦吏程球(ていきゅう)を重用、それが中平(ちゅうへい)四年の反乱の原因となったとされる。乱に際してはまっさきに程球(ていきゅう)が殺されている。耿鄙(こうひ)はこの乱の鎮圧に失敗、部下であった馬騰(ばとう)等の離反を招くことになり、その後殺害される。
このように、涼州(りょうしゅう)刺史(しし)にはことごとく残念な人たちが就任してしまっていた。このことが反乱を発生&長引かせる要因となったことは否めないであろう。

五、三輔(さんぽ)と涼州(りょうしゅう)

涼州(りょうしゅう)と三輔(さんぽ)地方の関係は深い。涼州(りょうしゅう)の乱に参加した馬騰(ばとう)はもともと扶風(ふふう)の人*6であるし、天水(てんすい)・隴西(ろうせい)・北地郡(ほくちぐん)の風俗は関中(かんちゅう)(三輔(さんぽ)周辺)と同じであったといわれる。*7後に涼州(りょうしゅう)の一部と三輔(さんぽ)があわせて雍州(ようしゅう)という区分になっているのもそういう背景があったためであろう。
朝廷は京兆尹(けいちょういん) 蓋勳(がいくん)の建議により、京兆尹(けいちょういん)*8配下に五つの都尉(とい)を設置、涼州(りょうしゅう)から三輔(さんぽ)を防衛するための軍備を増強。さらに、それまで涼州(りょうしゅう)から三輔(さんぽ)を守っていた扶風(ふふう)都尉(とい)を省き、漢安都護(かんあんとご)を設置した。この漢安都護(かんあんとご)は詳細不明であるが、西域都護(せいいきとご)のようなもので、その地一帯を軍政支配のもとに置くものであったと推測されており*9、それまでの扶風(ふふう)都尉(とい)を増強するものであったのだろう。西域都護(せいいきとご)は西の諸外国を統制する機関であり、同様の都護(とご)という名をもつ漢安都護(かんあんとご)の設置は三輔(さんぽ)以西の涼州(りょうしゅう)を外国視した施策のようにも思われる。漢安都護(かんあんとご)がいつまで置かれていたかは不明だが、三輔(さんぽ)で防衛する体制は曹操(そうそう)の時代にも引き継がれている。
六、董卓(とうたく)政権と涼州(りょうしゅう)
 その後中央では霊(れい)帝(てい)の死や宦官殲滅などの混乱の後に、涼州(りょうしゅう)の出身で、もともと涼州(りょうしゅう)とつながりの深い董卓(とうたく)が政権を握る。反董卓(とうたく)連合の決起に伴い、それまで首都であった洛陽から、涼州(りょうしゅう)に近い長安への遷都が起こると、董卓(とうたく)は韓遂(かんすい)・馬騰(ばとう)と手を結び、反董卓(とうたく)連合に対抗しようとした。初平三年に韓遂(かんすい)・馬騰(ばとう)は長安に詣で、それぞれ鎮西(ちんぜい)将軍(しょうぐん)、征西(せいせい)将軍(しょうぐん)に任じられた 。
 董卓(とうたく)が部下の呂布(りょふ)に殺されると、涼州(りょうしゅう)人である李傕(りかく)・郭汜(かくし)らが呂布(りょふ)を倒して権力の座につき、再び涼州(りょうしゅう)人政権が誕生する。興平(こうへい)元年(一九四)、馬騰(ばとう)が来朝したが、李傕(りかく)への要求 が受け入れられなかったために怒り、李傕(りかく)に不満を持つ朝臣たちとともに兵を挙げた。韓遂(かんすい)は馬騰(ばとう)と李傕(りかく)を和解させるために来朝したが、結局は争いに巻き込まれ、韓遂(かんすい)・馬騰(ばとう)は敗れて涼州(りょうしゅう)に撤退する*10。その後、李傕(りかく)らも献帝(けんてい)を失って没落し、涼州(りょうしゅう)人政権が再び生まれることはなかった。
 

七、潼関(どうかん)の戦い

 韓遂(かんすい)と馬騰(ばとう)は、義兄弟となるなど仲むつまじかったが、涼州(りょうしゅう)への撤退後に決裂、互いに争い合うようになる。
 中央で曹操(そうそう)が権力を握りると、鍾繇(しょうよう)を司隷(しれい)校尉(こうい)として、関中(かんちゅう)(三輔(さんぽ)周辺)の軍を監督させた。鍾繇(しょうよう)は馬騰(ばとう)と韓遂(かんすい)を和解させ、朝廷に帰服させた。当時、曹操(そうそう)と対立していた袁尚(えんしょう)は郭援(かくえん)を河東(かとう)に送り、馬騰(ばとう)・韓遂(かんすい)と連合させようとした。鍾繇(しょうよう)は張既(ちょうき)を送って馬騰(ばとう)・韓遂(かんすい)を説得、郭援(かくえん)を攻撃させた。こういった鍾繇(しょうよう)らの活躍で涼州(りょうしゅう)は一時の安定をみる。韓遂(かんすい)は妻子を人質にし、馬騰(ばとう)は自身が入朝した(実質人質)。建安(けんあん)十四年(二〇九)、武威太守(ぶいたいしゅ)張猛(ちょうもう)が雍州(ようしゅう)刺史(しし)邯鄲商(かんたんしょう)*11を殺害し、兵を挙げる事件があったが、その翌年に韓遂(かんすい)は自ら上奏して張猛(ちょうもう)を打ち破っている*12
 このように、韓遂(かんすい)・馬騰(ばとう)は完全に帰服したようにみえたが、建安(けんあん)十六年(二一一)、事態は急変。馬騰(ばとう)の子で入朝した馬騰(ばとう)に代わってその軍勢を率いていた馬超(ばちょう)と韓遂(かんすい)が反乱を起こし、涼州(りょうしゅう)・三輔(さんぽ)を巻き込んだ大規模戦役「潼関(どうかん)の戦い」が発生するのである。
反乱の原因は曹操(そうそう)が張魯(ちょうろ)討伐のために、漢中(かんちゅう)に大軍を送り込もうとしたことにある。関中(かんちゅう)諸将(しょしょう)*13は自分たちを攻めようとしていると疑い、馬超(ばちょう)・韓遂(かんすい)を中心に反乱を起こしたのだ。はじめは優勢であった関中(かんちゅうしょしょう)諸将であったが、しだいに戦線は膠着、最終的には賈詡(かく)の謀略で馬超(ばちょう)と韓遂(かんすい)が離間され大敗。馬超(ばちょう)等は涼州(りょうしゅう)に撤退、関中諸将(かんちゅうしょしょう)もあるいは戦死、あるいは降伏してしまい、人質となっていた馬騰(ばとう)一族や韓遂(かんすい)の妻子も誅殺された。
 翌十七年(二一二)正月、馬超(ばちょう)は異民族と結び反乱を起こす。多くの郡県が呼応し、冀城(きじょう)にこもる涼州(りょうしゅう)刺史(しし)韋康(いこう)*14を包囲。八月になっても韋康(いこう)に救援は来ず*15、遂に馬超(ばちょう)に敗れ殺害される。
 その後、韋康(いこう)のもとの属吏だった楊阜(ようふ)が中心となって馬超(ばちょう)を攻撃、十九年(二一四)、馬超(ばちょう)は冀城(きじょう)を失い、漢中(かんちゅう)の張魯(ちょうろ)のもとに落ち延びる。
 一方の韓遂(かんすい)は建安(けんあん)十九年(二一四)、馬超(ばちょう)の乱を受けて涼州(りょうしゅう)平定に来た夏侯淵(かこうえん)に攻撃され逃走。さらに、配下の羌兵の根拠地を攻撃され、救援したところを大破。翌二十年(二一五)、西平(せいへい)(金城(きんじょう)を分割して置かれた)・金城(きんじょう)の諸将に斬られて首を曹操(そうそう)のもとに送られたという。一説には、病死後に首を斬られ送られたともいう*16
 夏侯淵(かこうえん)はさらに中平(ちゅうへい)元年の涼州(りょうしゅう)の乱から三十年近く隴(ろう)西(せい)郡(ぐん)枹(ふ)罕(かん)の地で河首平漢王(かしゅへいかんおう)を自称し勢力を保っていた宋建(そうけん)を撃破し、涼州(りょうしゅう)一帯を平定した。
 夏侯淵(かこうえん)によるこの征討は、中平(ちゅうへい)元年以降の涼州軍閥(りょうしゅうぐんばつ)割拠時代にけりをつけたように見えるが、この後もまだ、軍閥が割拠し続けている。特に涼州(りょうしゅう)西方の武威(ぶい)・張掖(ちょうえき)・酒泉(しゅせん)・敦煌(とんこう)・西平(せいへい)は不安定な情勢が続く。
 この間に曹操(そうそう)は魏公(ぎこう)となり、建安(けんあん)十八年(二一三)雍州(ようしゅう)と涼州(りょうしゅう)・司隷(しれい)校尉(こうい)が統合され、雍州(ようしゅう)となっている。

八、張既(ちょうき)と蘇則(そそく)

 涼州(りょうしゅう)を語るうえで外せないのが張既(ちょうき)と蘇則(そそく)の活躍である。張既(ちょうき)は先述したように郭援(かくえん)の頃から関中(かんちゅう)諸将(しょしょう)との折衝で活躍していた。蘇則(そそく)は馬超(ばちょう)の乱の後、その被害で民衆が窮乏していた金城郡(きんじょうぐん)の太守(たいしゅ)となり、耕作を教えるなどして食糧増産に成功、数多くの流民達が帰服した。張魯(ちょうろ)征伐後、隴西(ろうせい)で李越(りえつ)という人物が反乱するが、蘇則(そそく)は羌族(きょうぞく)・胡族(こぞく)を率いて李越(りえつ)を包囲、降伏させた。
このころ、武威(ぶい)の顔俊(がんしゅん)・張掖(ちょうえき)の和鸞(からん)・酒泉(しゅせん)の黄華(こうか)・西平(せいへい)の麹演(きくえん)が郡をあげて反乱し、互いに争い合っていた。顔俊(がんしゅん)は曹操(そうそう)に救援を請うが、張既(ちょうき)は蜀(しょく)の平定を優先すべきと進言し、互いに殺し合わせて力を弱めさせた。顔俊(がんしゅん)は和鸞(からん)に殺され、和鸞(からん)も武威(ぶい)の王秘(おうひ)に殺された。このときには先述したように涼州(りょうしゅう)が置かれておらず、代わりに涼州(りょうしゅう)の一部と三輔(さんぽ)をあわせて雍州(ようしゅう)が置かれ、三輔(さんぽ)の地で西域からの防衛をはかる体制であった。
曹操(そうそう)が死ぬと、西平(せいへい)の麹演(きくえん)がふたたび反乱し、護羌校尉(ごきょうこうい)を自称した。蘇則(そそく)はこれを討ち、降伏させた。
 漢魏の交代期の延康(えんこう)元年(二二〇)、曹丕(そうひ)が涼州(りょうしゅう)刺史(しし)を設置しようとするとまた涼州(りょうしゅう)で乱が起きる。麹演(きくえん)が酒泉(しゅせん)の黄華(こうか)、張掖(ちょうえき)の張進(ちょうしん)と結び、再び反乱を起こしたのである。彼らは涼州(りょうしゅう)刺史(しし)となった鄒岐(すうき)を拒み、黄華(こうか)は酒泉(しゅせん)太守(たいしゅ)を受け入れず、張進(ちょうしん)は張掖(ちょうえき)太守(たいしゅ)をとらえ、それぞれ太守(たいしゅ)を自称した。さらに、武威(ぶい)でも胡族(こぞく)が寇を為して道路を断絶させた。これは涼州(りょうしゅう)の豪族や羌族(きょうぞく)・胡族(こぞく)も呼応するかなり大規模な反乱であった。曹丕(そうひ)は「張既(ちょうき)でなくては涼州(りょうしゅう)を安定させられない」として張既(ちょうき)を鄒岐(すうき)と交代させて涼州(りょうしゅう)刺史(しし)とした。
 蘇則(そそく)は金城(きんじょう)に駐屯していた将軍の郝昭(かくしょう)らと相談し、援軍を待たず、反乱軍が心を一つにする前に、分断し、降伏させる作戦をとった。
 武威(ぶい)の胡族(こぞく)を降伏させると、麹演(きくえん)は援軍と偽って三千の兵を率いて来て、蘇則(そそく)を殺そうとした*17。蘇則(そそく)はそれを見破って会見の席で麹演(きくえん)を殺害、さらに張掖(ちょうえき)を包囲して張進(ちょうしん)を殺害、黄華(こうか)は恐れをなして降伏。中平(ちゅうへい)元年のような大規模な反乱になりかねなかった乱を見事鎮圧したのである。ちなみに黄華(こうか)は後に兗州(えんしゅう)刺史(しし)になっている。ちゃっかり勝ち組。
 その後、酒泉(しゅせん)の蘇衡(そこう)が羌族(きょうぞく)と結んで周辺の県を攻撃した。張既(ちょうき)は護軍(ごぐん)の夏侯儒(かこうじゅ)とともにこれを撃破し降伏させると、要塞や烽火台を設置し、再びの反乱に備えた。羌族(きょうぞく)はその防備を恐れて二万人余りが降伏。また西平(せいへい)の麹光(きくこう)が太守(たいしゅ)を殺して反乱した。張既(ちょうき)は西平(せいへい)郡の人が皆、心から従っているわけではない、とし、「麹光(きくこう)を斬って首を送った者に褒美をあたえる」という布告を出して戦わずに鎮圧しようとした。その読み通り、麹光(きくこう)の部下が麹光(きくこう)を殺して首を送ってきたという。

九、最後に

その後も、諸葛(しょかつ)亮(りょう)の北伐で雍州(ようしゅう)の数郡が降伏する危機*18が起こるなど、たびたび蜀(しょく)漢の北伐に揺れた。これまで見たような不安定な情勢が利用されたのであろう。諸葛(しょかつ)亮の意志を継いだ姜維(きょうい)は涼州(りょうしゅう)出身で、羌族(きょうぞく)と結んでしばしば涼州(りょうしゅう)に侵入した。蜀(しょく)漢の北伐と涼州(りょうしゅう)というテーマは面白そうなので、また今度じっくり考察してみたい。
中平(ちゅうへい)元年以降、外国状態と化していた涼州(りょうしゅう)は「潼関(どうかん)の戦い」で韓遂(かんすい)や馬超(ばちょう)を打ち破った後も軍閥割拠が続き、中央の支配を受け入れなかった。その後の張既(ちょうき)や蘇則(そそく)の活躍によってようやく、ある程度の安定を見る事になったのである。

図二:魏の涼州・雍州

十、参考文献

陳寿著、裴松之注『三国志』(中華書局)
范曄著、李賢注『後漢書』(中華書局)
司馬光著・胡三省注『資治通鑑』(中華書局)
譚其驤主編『中国歴史地図集、二・三』(地図出版社)
森本淳『後漢末の涼州の動向』(「中央大学アジア史研究」三十二、二〇〇八年三月)

*1:吉川英治三国志』で韓遂配下として活躍した侯選・張横・程銀・成宜李堪・馬玩・梁興・楊秋の八人をそう呼称した。羅貫中三国演義』では「手下八部」という。なお、史書においては配下というより同盟軍である。

*2:後漢書巻七十二列伝第六十二、董卓伝注に引く『献帝春秋』では韓遂らを拉致したのを涼州義従の宋建と王国(人名)とする。

*3:三国志』巻一、武帝紀注に引く『典略』によると、辺章は病死したともいう。

*4:閻忠は賈詡を見いだしたり、皇甫嵩に独立を勧めたりするなど意外と出番がある。

*5:梁鵠は書家として有名であった。また梁鵠が中央で人事を担当していた時、曹操蔡瑁とともに彼を訪ねたが面会拒否されたという話もある。

*6:父の馬平が隴西に移住し、羌族との婚姻で馬騰が生まれた。

*7:史記』巻一百二十九、貨殖列伝

*8:副首都(董卓政権下で首都)長安を含み首都圏である京兆の太守。大阪府知事という感じか。

*9:石井仁『漢末州牧考』(「秋大史学」三十八、一九九二年三月)

*10:森本淳氏は董卓政権、李傕連合政権を中平元年からの涼州反乱の延長線上に位置づける。(森本淳『後漢末の涼州の動向』(「中央大学アジア史研究」三十二、二〇〇八年三月))

*11:資治通鑑』によると興平元年六月、涼州のうち河西の四郡(武威・張掖・酒泉・敦煌)を雍州とし、邯鄲商を刺史とした。建安十八年、雍州・涼州司隷校尉をあわせて雍州とした。曹丕が魏王となると雍州を分割して再び涼州が置かれた。その後、三輔を除いた旧司隷部は司州となった。

*12:建安年間には、酒泉太守が在地豪族の黄氏を誅滅しようとして失敗、逃亡した黄昂に攻撃され、張掖に逃げるも殺害されるという事件が発生している。張猛の都尉楊豊が黄昂を討ったが、後述する黄華はこの混乱の中で酒泉郡を領有した。

*13:馬超韓遂および、俗に言う「旗本八旗」(注一参照)らのこと。涼州出身者だけでなく、侯選・程銀・李堪は司隷の河東出身者であり、広域にわたる反乱であったことが窺える。

*14:父韋端も建安はじめごろから涼州刺史となっており、韋康はそれを世襲した。大きな勢力があったから夏侯淵が見棄てた(注十七参照)という可能性も微レ存(びりゅうしレベルでそんざいする!?)。

*15:夏侯淵が救援に向かっている途中で韋康は殺され、夏侯淵自身も馬超軍に敗北してしまう。それにしても正月から八月まで救援が来ないって遅すぎじゃ……。

*16:三国志』巻十一、王脩伝注に引く『魏略』

*17:麹演は反乱軍なのに蘇則を救援に来るのはおかしい気がするが、張進や黄華とこっそり結びついていたか、あるいは偽りの降伏をしたのだろう。

*18:第一次北伐、隴右に進出した諸葛亮に天水・南安が呼応、ただ隴西太守の游楚のみが堅守した。諸葛亮は隴西を落とすため魏の援軍到着を遅らせようとし、馬謖を街亭に派遣したが、泣いて斬ることになった。ちなみにこの游楚を推挙したのは張既である。