劉矯→陳矯
魏の司徒、陳矯はもとは劉氏だったが、母方の伯父の陳氏を嗣いで陳矯になったという。
『三国志』巻二十二、陳矯伝注引『魏氏春秋』
矯本劉氏子,出嗣舅氏而婚于本族。徐宣毎非之,庭議其闕。
そしてもとの劉氏と婚姻したため徐宣にdisられた。
さて、姓氏の淵源を解説した『元和姓纂』の陳氏の項には次のようにある。
『元和姓纂』巻三、十七真、陳
(広陵陳氏)胡公之後、漢末魯相(失名)無子、以外孫劉矯為嗣、魏司徒東郷侯生騫、晋太尉。
こちらでは漢末の魯相(名前は失われている)に子が無かったため、外孫の劉矯が後を継いだとする。
陳矯が後を継いだのは『魏氏春秋』では母方の伯父、『元和姓纂』では母方の祖父、とわずかに違いがある。
どちらが正しいのかはよくわからない。
『魏氏春秋』のほうが成立が早いので、そちらのほうが正しいのかも知れないが。
おまけ
『水経注』巻二十五、泗水
高門一里餘道西,有『道兒君碑』,是魯相陳君立。
道兒君碑という碑があって、陳という姓の魯相が建立したらしい。
陳矯の祖父だったりして。