雲子春秋

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中平元年のフットボール2、馬元義の捕縛

http://d.hatena.ne.jp/chincho/20110928/1317139500
クッソ昔に書いた記事。

今までずっと黄巾の乱の経過を次のように思っていた。
1、張角の弟子唐客*1の密告
2、馬元義逮捕誅殺
3、黄巾蜂起
しかし、『後漢紀』を読んだらこんな感じだった。
春正月:張角の弟子唐客が謀反を告発(三月五日挙兵予定)
二月:張角挙兵
三月;戊申:何進を大将軍とし、都亭などに都尉設置
  :公卿百官に馬弩を出させる詔。各中郎将に黄巾を征伐させる。
夏四月:太尉楊賜罷免、太僕トウ盛太尉任命。司空張済病免、大司農張温司空任命。
騎都尉曹操を黄巾征伐の援軍に。
五月;乙卯:馬元義らが京都で謀反しようとし誅殺。潁川黄巾波才撃破。
   盧植董卓交代
六月:中郎将張均が反宦官の上表。張均黄巾とつながっているとして獄死。
八月:東郡黄巾卜己撃破、董卓皇甫嵩交代、朱シュン南陽黄巾趙弘ようやく撃破
十月:張梁撃破
十一月:張宝撃破、黄巾制圧
つまり、
1、唐客の密告
2、張角および黄巾蜂起
3、洛陽で反乱しようとした馬元義逮捕誅殺
黄巾一斉蜂起より後に馬元義は反乱しようとし殺害されているのだ。

という話を書いて我々のイメージする黄巾の乱と順序が違うとしたのだけど、『続漢書』に新たな情報が。

『太平御覧』巻六百四十五、刑法部十一所引『続漢書
張角別黨馬元義為山陽所捕得,鎖送京師,車裂于市。*2

馬元義は「山陽の捕得する所と為り」とある。おそらく山陽太守に捕縛されたということだろう。
そして、京師に護送され車裂きになったという。


過去の記事とあわせて整理すると


洛陽で馬元義が三月五日の挙兵に向けて裏工作活動をしていた。
中平元年正月に唐周(唐客)が反乱を密告し、馬元義は洛陽から逃走した。
二月、密告により計画を早め張角は反乱。
この反乱に前後して馬元義は逃走先の山陽で捕縛され京師に護送され、五月に京師洛陽に到着した馬元義は車裂で処刑された。


このような順序だったのだろう。
反乱のきっかけが唐周の密告だったのか、馬元義の山陽での捕縛だったのかはなんともいえないが、山陽で捕縛されたとすれば捕縛から処刑までにタイムラグがあったことが説明できる。


1、唐周密告
2、馬元義山陽へ逃走
3(4)、馬元義山陽で捕縛、京師洛陽へ護送
4(3)、張角反乱
5、馬元義処刑
※3と4はどちらが先かはわからない。


長々書いたが、黄巾の乱発生の順序は簡単に書くと上のような感じなんじゃなかろうか。

*1:後漢書では唐周、後漢紀で唐客

*2:書き下し:張角の別党馬元義、山陽の捕得する所と為り京師に鎖送され、市において車裂かるる。