雲子春秋

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霊帝再評価その1、西園八校尉1

やるやる言って数日が過ぎたのでそろそろちゃんと書く。
一連の霊帝記事は、霊帝の中央集権・皇帝集権をテーマにお送りします。
結論から言うと西園八校尉の設置で霊帝が目指したのは皇帝集権の軍事組織整備である。

西園八校尉とは

西園八校尉は中平五年(188)に設置された新たな軍団である。
設置の経緯は大将軍の属僚許涼らが、大将軍何進に次のような進言をした。
太公望の『六韜』にあるように天子が兵を率いて四方を威圧すべきである」
何進がそれを霊帝に上言すると、何進に詔がくだり、四方の兵を徴発させた。
平楽観で大規模な軍事演習が開かれ、そのときに西園八校尉が置かれたという。*1
メンバーは以下の八人である。

上軍校尉:小黄門の蹇碩
中軍校尉:虎賁中郎将の袁紹
下軍校尉:屯騎校尉の鮑鴻
典軍校尉:議郎の曹操
助軍左校尉:議郎の趙融
助軍右校尉:議郎の馮芳
左校尉:諫議大夫の夏牟
右校尉:諫議大夫の淳于瓊*2

上軍校尉の蹇碩が彼らを統べた。
彼ら任官者の前職を見てみると、小黄門は少府の属官、虎賁中郎将・議郎・諫議大夫は光禄勳の属官である。
少府は皇帝の身の回りの管理、光禄勳は宮門・宮中の警備を基本の職務としており、皇帝側近といえる。
また、屯騎校尉は宿衛兵をつかさどったという。
つまり、西園八校尉の任官者は皆皇帝近く仕えるもので固められていたのである。

兵の徴発

兵の徴発は全国から行われたようである。

三国志』巻八、張楊
靈帝末,天下亂,帝以所寵小黄門蹇碩為西園上軍校尉,軍京都,欲以御四方,徴天下豪傑以為偏裨。太祖及袁紹等皆為校尉,屬之。并州刺史丁原遣楊將兵詣碩,為假司馬。

西園軍は天下の豪傑を偏裨(副将)として徴招したという。
それにともなって、并州刺史の丁原張楊に兵を率いさせて蹇碩のもとに送った。

三国志』巻十七、張遼
漢末,并州刺史丁原以(張)遼武力過人,召為從事,使將兵詣京都。何進遣詣河北募兵,得千餘人。

また、張遼もおそらく同時に送られ、その後何進の命で河北での募兵を行っている。

三国志』巻六、董卓
(何)進遣騎都尉太山鮑信所在募兵

三国志』巻三十二、先主伝
頃之,大將軍何進遣都尉毌丘毅詣丹楊募兵

何進は騎都尉鮑信に泰山郡で、都尉毌丘毅に丹楊で募兵を行わせている。


西園軍は全国各地からの募兵による軍団であった。
さて、このように見てみると募兵は何進が進めている。
西園軍設置の経緯においても、霊帝何進に兵の徴発の詔を下している。
しかし、何進は西園八校尉の一員ではない。一体どういうことなのか・・・。


次回へ続く。

次回予告

西園八校尉における何進の立場の謎、これまでの中央軍とは一体どう違うのか・・・。
それなりに明らかになる!・・・かも。


うん、まとまりなくてごめんね。

*1:追記)この軍事演習は中平五年十月に行われたが八校尉自体は中平五年八月に発足していた。

*2:追記)趙融・馮芳・淳于瓊は前の官職が書かれていないが、ここでは並列とみて、前の人物と同じ官職であったとした。原文:小黄門蹇碩為上軍校尉,虎賁中郎將袁紹為中軍校尉,屯騎校尉鮑鴻為下軍校尉,議郎曹操為典軍校尉,趙融為助軍左校尉,馮芳為助軍右校尉,諫議大夫夏牟為左校尉,淳于瓊為右校尉(『後漢書』列伝第六十四上、袁紹伝、注引『山陽公載記』)