雲子春秋

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霊帝再評価その2、西園八校尉2

最近、霊帝は理想だけあって貫徹できなかった中途半端な皇帝という評価になって困っています。
いや、なんでもないです。
というわけで西園八校尉の続き。
前回書き忘れたのだけど、これらの西園軍の記事は、石井仁「無上将軍と西園軍――後漢霊帝時代の「軍制改革」――」(東北大学『集刊東洋学』76、1996)、上谷浩一「後漢中平六年の政変の構図――外戚何進の「西園軍」掌握の意味するもの――」(『東方学』98、1999)を参考にしています。
西園八校尉において何進はどのような立場であったかということの前に、西園八校尉設置の背景となった当時の中央軍のことについて。

当時の中央軍

後漢書』紀第五、安帝紀
(永初三年(109)四月)三公以國用不足,奏令吏人入錢穀,得為關内侯、虎賁羽林郎、五大夫、官府吏、緹騎、營士各有差。

後漢書』紀第七、桓帝
延熹四年(161)七月)占賣關内侯、虎賁、羽林、緹騎營士、五大夫錢各有差。

後漢書』紀第八、霊帝
(光和元年(178))初開西邸賣官,自關内侯、虎賁、羽林,入錢各有差。

安帝期から何度も虎賁郎、羽林郎、執金吾配下の緹騎、五校尉の営士など中央軍の兵士たちが売官の対象となっていた。
金で買ってこれらの兵士となる者たちが多くいたとすれば、中央軍は弱体化していたと考えられる。
また、同じく中央軍である左・右・五官中郎将配下の郎官は孝廉に推挙された者たちの初任官となっていた。一種の官吏研修的なものか。
孝廉は孝である者、廉である者を推薦する制度であったから当然儒学的徳目が重視され、武略は関係なかった。
こういった状況の中で、黄巾の乱が発生し、実戦に耐えうるまともな中央軍の整備が急務となり、西園八校尉が創設されたのであろう。

何進の立場

後漢書何進伝では、八校尉創設記事に続いて、こうある。

後漢書』列伝第五十九、何進
帝以蹇碩壯健而有武略,特親任之,以為元帥,督司隸校尉以下,雖大將軍亦領屬焉。

霊帝蹇碩司隷校尉以下、大将軍までも督させ、領属させた。
大将軍の何進すら、上軍校尉蹇碩の統属下におかれたというのである。
これに関して、石井仁氏は大将軍何進が中央軍を統率したとした上で上軍校尉を「直属部隊を統率しつつ、中央軍全体に対する監軍、かつ司隷校尉の上級職として京師周辺の治安・警察業務も兼掌する、強大な権限を付与された官職」*1としている。
それに対して、上谷浩一氏は「蹇碩の元帥就任と「西園軍」掌握は軍制の捩じれ、混乱」*2とする。

西園軍当初の構想

後漢書』列伝第五十九、何進
天子親出臨軍,駐大華蓋下,進駐小華蓋下。禮畢,帝躬擐甲介馬,稱「無上將軍」,行陳三匝而還。

これは、前回取り上げた軍事演習の記事であるが、霊帝は軍にのぞみ、大華蓋の下に註して無上将軍を称し、大将軍何進は小華蓋の下にしたという。上谷氏はこれを何進が副将軍であるという意味としている。
おそらく、当初の構想では、西園八校尉は無上将軍霊帝の配下となり、実際的には副将軍にあたる何進がこれを統率する予定であったのだろう。

しかし実際には以下のようになってしまった。

この構想変更の原因にあるのは一体なんだったのか!
また次回に続く。
気になる人は上谷氏の論文を読むと良いよ!
読んだらこのブログの記事は読む必要がなくなるよ!

*1:石井仁「無上将軍と西園軍――後漢霊帝時代の「軍制改革」――」(東北大学『集刊東洋学』76、1996)

*2:上谷浩一「後漢中平六年の政変の構図――外戚何進の「西園軍」掌握の意味するもの――」(『東方学』98、1999)一部新字体に直した箇所あり。