雲子春秋

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安成長

安成長の呉碭という人物がいる。

三国志』巻六十呂岱伝
建安二十年,督孫茂等十將從取長沙三郡.又安成、攸、永新、茶陵四縣吏共入陰山城,合衆拒岱,岱攻圍,即降,三郡克定.權留岱鎮長沙.安成長呉碭及中郎將袁龍等首尾關羽,復為反亂.碭據攸縣,龍在醴陵.權遣横江將軍魯肅攻攸,碭得突走.岱攻醴陵,遂禽斬龍,遷廬陵太守.

建安二十年、孫権は呂岱に長沙郡を攻めさせた。
長沙郡下の安成、攸、永新、茶陵の四県は協力して呂岱を拒むも、包囲され降った。
安成県の長であった呉碭という人物は、その後、関羽に呼応して中郎将の袁龍とともに呉に反乱する。
攸県を拠点としたが、魯肅に攻められ敗走した。(袁龍は捕らわれ斬首)


三国志』ではこれだけだが、『広東通志』という地方志にはもう少し詳しく書かれている。

『広東通志』
碭字叔山,揭陽人。漢末察孝廉,為安成長。
孫權使呂岱出長沙郡,碭據縣不從。權遣魯肅攻圍,碭突去曰:碭受天子命為長,知有漢,不知有呉也。
權後統有交廣,遣歩碭為交州刺史。亦義碭無孅介言,碭亦不仕。

呉碭は字を叔山といい、南海郡揭陽の人である。
漢末に孝廉に挙げられて安成長となった。
その後の流れはだいたい同じだが、敗走するときに次の言葉を残している。
「私は天子の命によって安成長となった。漢という国が有ることは知っているが、呉という国が有ることは知らない。」*1
敗走後はおそらく故郷に帰ったと思われ、歩隲が交州刺史となると呉碭を義としたが、呉碭は呉には仕えなかった。


呉碭は漢うんぬんといっているけど、呂岱が攻めたとき長沙は劉備領だった気がする。
呉碭は孝廉から安成長になっていることから、おそらく朝廷が任じたものと思われる。
劉備が長沙を落としたとき、そのまま安成長とされたんだろうか。
だとすると一度は劉備に降っていたことになりそうだ。
孫権に降るのは拒否するのに劉備ならいいのか?
劉備は当時の人たちには「漢」と見られていたということになるんだろうか。

*1:誤訳かもw