盧毓の登用方針
昨日の記事で取り上げた盧毓。盧植の息子である。
彼は曹爽政権になると失脚してしまうのだが、それ以前は長く吏部尚書として人材登用に携わっていた。
その彼の登用基準は次のようであった。
『三国志』巻二十二盧毓伝
毓於人及選舉,先舉性行,而後言才.
彼はまず、性格や品行をみて、その後に才能をとりあげるというものであった。
曹操が「唯才」を唱えたことは非常に有名であるが、この盧毓の登用方針はそれと相反するものであったのだ。
一方、曹爽政権下においては何晏が人材登用を担当し、活躍した人材は皆「才」をもって知られていた。
例えば、丁謐は「頗有才略」、李勝は「雅有才智」と書かれる。
このように曹爽政権の人材登用方針は、曹操時代のものを踏襲していた。
ところが、曹爽の失脚とともに、司馬懿によって盧毓はまた吏部尚書に返り咲く。
曹爽と司馬懿には様々な対立があったが、人材登用に関してもまた同様であった。