雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

ひたすら(傅)士仁を擁護する

実は、最近西洋かぶれ気味で、イギリス貴族の本、フランス革命の本、十字軍の本などを読んでおり、三国志から完全に離れていまして、ブログ更新も滞っていたという次第であります。


そんなわけで更新ネタが枯渇していますので、(傅)士仁(以下士仁)を擁護するという半分(全部?)ネタ記事を書きます。


まず、皆さんもご存じでしょうが、士仁の経歴をあらためて振り返ってみます。
士仁は字を君義といいます。
名と字で“仁義”。すばらしい!
出身地は幽州広陽郡。劉備の出身地、涿郡の隣の郡です。
劉備軍の配下は、多くが荊州益州で、幽州出身の人材は簡雍や張飛など、古参に限られますから、彼もあるいはそうであったかもしれません。
219年、荊州公安の守備をしていましたが、包囲され、孫権軍に降伏。
その後、彼の姿を見た者はいない・・・。


特筆すべき功績がなかったのか、降伏したために記録が抹消されたのか定かではありませんが、ほとんど事績は残っていません。


さて、次に、本題の士仁擁護を行います。
英雄関羽を死に至らしめる原因をつくったことで、『三国演義』を始めとする各種文学、さらにはサブカル方面でも、不義不忠を強調されてしまった彼ですが、私は不義不忠であったと思いません。


次の文を見て下さい。

三国志』巻五十四呂蒙伝注引『呉書』
將軍士仁在公安拒守,蒙令虞翻說之。翻至城門,謂守者曰:「吾欲與汝將軍語。」仁不肯相見。乃為書曰(中略)仁得書,流涕而降。

士仁は“流涕”して降った。つまり涙を流しながら降伏しているのだ!
これが不義不忠の者の行いであろうか。
否!これは様々な葛藤のもと、苦渋の決断を下した漢(おとこ)の行いである!


ちょっと取り乱して、語尾が「だ・である調」に変わってしまいましたが、もとに戻します。
この降伏時の状況を考慮してみます。
士仁の守備していた城は公安です。
最初、公安は孫権軍への備えとして兵が多くいましたが、呂蒙が病気をよそおったため、関羽はその兵の多くを樊城攻めに回してしまいます。
包囲された時は城内に兵は少なかったのです。


城を守るには籠城という作戦がありますが、そもそも籠城は援軍が来るのを期待して行われるものです。
果たして、援軍は期待できるでしょうか。
北には南郡がありますが、公安同様、備えの兵が樊城攻めに回されておりましたし、関羽本軍は、降伏した于禁軍を取り入れたために、兵糧不足。
援軍は期待できません。


こんな絶望的な状況で士仁に降伏以外の道はないのではないでしょうか。
城を枕に、兵を道連れに死ぬのが正しい道なのでしょうか。
忠義のために兵を殺せというのでしょうか。


そんな状況でも士仁はがんばりました。前述の降伏シーンですが、降伏勧告の使者である虞翻が城門まできて士仁と語る事を求めますが、士仁はそれを拒んでいます。
その後書簡による降伏勧告で、涙ながらに降伏するのです。


どうでしょうか。少しは士仁を見直していただけましたでしょうか?


だいたい、関羽が、呉をなめきって、その備えを怠っていたのが問題。
孫権と婚姻関係むすんどきゃこんなことにはならなかったんじゃねーのか???
前だけみてんじゃねーよ、蛮雄がッ!


最後に不適切な発言がございました。
お詫びいたします。