魏の中央軍
昨日に引き続き何茲全「魏晋的中軍」(『中央研究院歴史語言研究所集刊』17)のまとめ。
今回は魏の中央軍。
魏の中央軍は漢以来の軍制の影響だけでなく曹操集団の建安時代の発展の結果を受けているという。
曹操の時の親兵として、虎豹騎のほか、許褚の領した虎士や典韋の率いた親兵などがあった。
魏の中央軍は武衛営、中塁営、中堅営、中護軍、中領軍などがあった。
許褚は韓遂、馬超との戦いの後、武衛中郎将となるが、これが武衛の始まりである。
その後、文帝が即位し魏帝国が誕生すると、曹操時代の宿衛軍の組織を引き継ぎ、許褚を武衛将軍に任じて禁兵を率いさせた。
曹爽政権時代に曹羲が中領軍となり、中塁営と中堅営は中領軍に吸収された。
後漢の五校尉*1は存在してはいるものの漢代ほど重要ではなくなった。
そのため毌丘倹反乱の際の司馬師の罪状として五校尉の領兵が欠けても補わないことを挙げている。(『三国志』巻二十八毌丘倹伝注)
原因として曹操が自身の親兵を増強する一方で、漢室の宿衛兵たる五校尉の力を弱めたことがあるのではないかとしている。
さらに宮殿内の宿衛であった三署郎*2も魏代には不在であった。
それまでの漢の中央軍は弱体化し、曹操の軍制から生まれた親兵が魏において中央の宿衛軍を担ったのである。