雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

黄門王䑛

文帝に対して帝位に就くことを薦めたメンバーの中に名を連ねる「給事黄門侍郎王䑛」

三国志』文帝紀
魏王侍中劉廙、辛毗、劉曄尚書令桓階、尚書陳矯、陳羣給事黄門侍郎王䑛、董遇等言・・・


三国志』での登場はここだけであるが、後の史書にも密かに名前が出ている。

『晋書』礼志
太康元年,東平王楙上言,相王昌父䑛,本居長沙,有妻息,漢末使入中國,値吳叛,仕魏為黄門郎,與前妻息死生隔絕,更娶昌母.今江表一統,昌聞前母久喪,言疾求平議.

『北史』劉子翊
昔長沙人王䑛,漢末為上計詣京師.既而吳、魏隔絕,䑛在内國,更娶,生子昌.䑛死後,為東平相,始知吳之母亡.便情繫居重,不攝職事.于時議者,不以為非.然則繼之與前,於情無別.若要以撫育始生服制,王昌復何足云乎?


王䑛は長沙の人であり、長沙には妻子がいた。
ところが、漢末に上計掾(郡の人口などの報告書を都に届ける)となって京師に赴いた際、孫権の反乱(赤壁?)によって長沙に帰れなくなってしまう。
魏に仕え黄門侍郎となり、妻を娶って王昌という子を生む。
そして、長沙の妻とは会うことなく死んでしまった。
三国志』には書かれないけど、引き裂かれた愛のドラマがあった(はず)。
長沙の上計掾だから韓玄が選んだのかも、と妄想が膨らんだ。


それはさておき、この話にはちょっとした後日談がある。


息子の王昌は成長して晋で東平相になるが、長沙にいた父の前妻が死んでいたことを知ると、喪に服し、仕事をしなかった。
このことの是非は議論になった末、非としないことになったという。
その議論には陳寿とかも参加していて結構面白いのだけれど長いので省略。
気になった方は中華書局『晋書』の635ページからをみてね☆


今はあまり伝わっていないけど、このエピソードは隋の劉子翔が引用していることからも、魏晋南北朝時代にはそれなりに有名であったようだ。