遷太后
昨日の続き。
“遷太后于永寧宮”についての黒いウワサ。
この話に関して胡三省が資治通鑑注で疑問を呈している。
『資治通鑑』巻七十五 魏紀七
大将軍爽用何晏・鄧颺・丁謐之謀,遷太后於永寧宮
胡三省注)拠陳寿志,太后称永寧宮,非徙也。意者晋諸臣欲増曹爽之悪,以遷字加之耳。
晋書五行志曰:爽遷太后於永寧宮,太后与帝相泣而別。蓋亦承晋諸臣所記也。
陳寿志、すなわち『三国志』では“遷”という字を使っておらず、晋の臣が曹爽を貶めるために“遷”の字を加えたというのだ。
というわけで『三国志』を見てみると
胡三省のおっしゃるとおり“遷”という語は使われず、「曹芳が即位して皇太后となり、永寧宮と称した」とあるだけなのだ。
一方晋書を見ると
さて、それでは魏国の他の皇太后を見てみよう。
すると面白いことがわかる。
曹丕が即位したとき↓
曹叡が即位した時↓
つまり、魏初には皇太后が“○○宮と称する”ことはほぼ慣例化、或いは制度化されていたようなのだ。
そのため曹芳が即位した時に“稱永寧宮”することは決して特別なことではない。
それをまるで悪のように書き、さらにその責任の所在を曹爽になすりつける!!
晋の曲筆がまたひとつ明らかになった。
余談だが、文帝はこのような詔を出している。
『三国志』巻二 文帝紀
夫婦人與政,亂之本也。自今以後,羣臣不得奏事太后,后族之家不得當輔政之任,又不得膻受茅土之爵;以此詔傳後世,若有背違,天下共誅之。
婦人が政治に関与するのは乱の本となるので、群臣が太后に奏上することを禁ずる、というものだ。
ところが、司馬一族は太后を利用して権力を握った。
それまで魏においては太后が令*2を出すことはなかったのだが、正始の政変以降は太后が令をだすことが多発する。
司馬懿のクーデター、正始の政変の際には、永寧太后に上奏することで曹爽等を罷免しているし、曹芳の廃位及び曹髦の即位も永寧太后によるものだ。
さらには、曹髦死後は群臣の奏上によって、皇帝のみに許されるはずの“詔”を出すことができるようになっている。
正始以降の皇帝権力の衰弱および司馬一族の隆盛には永寧太后の存在があった。
文帝の危惧は現実のものとなった。永寧太后が魏を滅ぼしたといっても過言ではないのかもしれない。