雲子春秋

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宋の太学

宋(960-1279)の太学がけっこう面白い。
宋初は国子監といって官吏の子弟教育などを行っていたが、学生達はほとんど学校へ行かなかった。
ただ、国子監の学生は科挙の際に、若干のアドバンテージがあったので、科挙の時期になると、学生が殺到した。
科挙の時期だけしか学生達は来なかったそうだ。
そのため、出席五百日に満たないとアドバンテージを得られない制度も導入されかけたが、結局やめとなった。


宋初は残念な学校であったが、四代仁宗の頃から変わる。
仁宗は国子監を拡張して太学を造っただけでなく、地方にも州学を設けた。
州学の胡瑗という教授が、はじめて校則にあたる学規というものをつくった。
太学でもそれを取り入れ、規範的な学校がここに始まるのである。


さらに六代神宗の頃に、王安石の改革によってさらなる変化が訪れる。
王安石は三舎法を導入する。
三舎法は、学生を上舎、内舎、外舎の三つに分け、試験によって、外舎から内舎へ、内舎から上舎へと、上位の舎へ進級させるものである。
その上、成績の良い者は科挙によらずに官吏に任じた。
それまで太学は単なる教育機関となっていたが、官吏養成の色彩が強まった。


太学の外舎生は十日に一度“課”、月に一度“私試”、年に一度“公試”という試験があり、試験地獄の様相を呈している。
これらの試験による学科点である“校芸”のほか、品行による点数である“積行”もあり、まとめて“積校”といった。


積校が良いと内舎生に上げられ、私試か公試のどちらかを受けるだけになりだいぶ楽になる一方、積校が悪いと退学になる。


また、内舎生は二年に一度“舎試”という試験を受け、舎試の成績と積校が共に良いとそのまま官吏に任命された。
片方のみ良いと上舎生に上げられ、科挙の際のアドバンテージを得る事が出来た。


学生運動もかなり盛んであった。
知臨安府(首都の長官、石原慎○郎)が学生を罰したことに対して、学生達はストライキを決行し、結局その知臨安府は罷免されたということもあった。
またある丞相の父が死んだ時に、喪に服さなくてもよいと詔したことがあった。
もともとその丞相は不人気であったこともあり、学生達は連名で上書して、喪に服すようにと攻撃、さらにはストライキまで起こしかけ、その詔は取り消された。
安保闘争チックなことが宋代にすでに繰り広げられていたのだ。


ただ、それほど盛んであった学生運動も、南宋末の宰相、賈似道によって牙をぬかれ、おとなしくなってしまう。
賈似道は太学の環境を上げるなどして学生達の評判をとる一方、学生の運動をしっかりとりしまるなど、うまく緩急をつけて、学生達を洗脳してしまった。
賈似道の人気は高く、彼が辞職願をだすと、学生達は強く引き留めるのであった。


さまざまなことのあった太学だが南宋の滅亡とともに廃れていく・・・。


参考:宮崎市定南宋太学生生活』(「アジア史研究第一」p365-401 東洋史研究会 昭32)