趙儀碑ついでに劉盛
2000年に発見された趙儀碑。建安十三年(208)の建立である。
以下の中国サイト見て繁体活字化。
http://blog.sina.com.cn/s/blog_60954b720100yrlz.html
http://www.yingbishufa.com/ldbt/zhaoyibei.HTM
碑文
趙儀碑
漢故属国都尉犍為属国趙君諱儀字臺公,在官清亮,吏民謨念,為立碑頌,遭謝酉張除反,爰傅碑在泥塗、建安十三年十一月廿日,癸酉,試守漢嘉長蜀郡臨邛張河字起南,將主薄文堅、主記史邯伍、功曹石向*1闔,掾史許和、楊便、中部□度邑郭掾、盧餘、王貴等,以家錢雇飯石工劉盛復立,以示後賢。
訳
漢のもとの属国都尉、犍為属国の趙君は諱を儀、字を台公といった。官位にあって清らかで、吏民は崇拝してこの碑を建てた。謝酉と張除の反乱で、この碑は泥土にまみれてしまった。建安十三年十一月二十日癸酉、かりの漢嘉長、蜀郡臨邛県の張河、字は起南が主簿の文堅・主記史の邯伍・功曹の石向闔・掾史の許和・楊便・中部●*2度邑郭掾*3・盧余・王貴らといっしょに私費で飯石*4工の劉盛を雇い再び(趙儀碑を)建造し、後世の賢人に示すこととした。
趙儀自体がいつの人かよくわからない。
建安十三年の漢嘉長が張河だということはわかる。
謝酉と張除の反乱についての詳細は不明。
益州黄巾馬相の反乱と何か関わりがあるかもしれない。
石工劉盛
この碑を作った劉盛。建安十年(205)巴郡に建立された樊敏碑にも見える。
一応早稲田大学古典籍データベースで拓本が見れる。
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi10/chi10_03801/chi10_03801_p0001.jpg
字がごちゃごちゃして全く読めないけど。がんばれば左下に「石工」の文字が見える。
なので『隷釈』に頼る。
『隷釈』巻十一 樊敏碑
(前略)
建安十年三月上旬造石工劉盛息懆*5書
劉盛はこの当時益州で有名な石工だったのだろう。
劉盛調べたら劉武良という人と何らかの関わりがあるかもしれないらしいが劉武良って誰?
劉武良
〔東漢〕善刻碑。建安十年(二O五)刻馬郡太守樊敏碑。按隸釋載:造石工劉盛,不著明鐫書人,亦非劉武良也。今依庚子銷夏記,姑存之,俟考。
http://www.gg-art.com/dictionary/dcontent_b.php?bookid=34&name=%BCB&columns=2&bookdetailid=51216
劉武良
後漢代、碑を彫るのを得意とした。建安十年(205)に巴郡太守樊敏碑を彫った。
隷釈の記載を考えると、石工劉盛造る、とあり、著名な彫り師ではなく彫り師がはっきり記録されているわけでなく*6、劉武良でもない。
今『庚子銷夏記』に依拠して、かりにこれを書く。考察が待たれるところだ。
劉盛、字武良ってことにしておくか。
追記
日本の研究者がいろいろ指摘してた。
功曹は向闔
中部の後の字は赳*8
追記2
Internet Archiveで『庚子銷夏記』のpdfが見れた。
樊敏碑に関しては下のpdfの23ページ
http://ia600406.us.archive.org/8/items/06067099.cn/06067099.cn.pdf
『庚子銷夏記』巻五 巴郡太守樊敏碑
樊巴郡碑建於建安十年不知今在何地余所収本無一字残缺題額及鐫書人劉武良名倶全而書法遒勁古逸尤為可寳集古金石二録倶不載豈近代始出現耶金石古文載其文至銘辭缺六字又誤四字余憑此碑改正(後略)
劉武良は名前を倶というらしい。
(劉盛じゃ)ないじゃん……。
追追記。
goushu
@my_birthday0128 追記2の『庚子銷夏記』のところ、当時通行の樊敏碑のテキストが残闕がかなりあったのに対し、著者収蔵の拓本には「『題額』も『鐫書の人の劉武良名』もともに完全に残っている」と言ってる部分で、名前を倶と言ってるわけじゃないと重います。
だそうです。標点ないものを読むにはまだ早かった><
(漢文読めて)ないじゃん……。