益州と興平改元
194年、改元が行われ、年号は初平から興平となった。
しかし、どうも益州においてはその後もそのまま初平が使われていた可能性がある。
初平は四年までしかないのだが、益州の地方史『華陽国志』では初平六年という表現が出てくる。
『華陽国志』巻一、巴志
獻帝初平六年,征東中郎將安漢趙穎建議分巴為二郡。
これを初平元年の誤りであるという説もあるのだが、注によると劉昭『郡国志』に引かれた蜀漢の譙周による『巴記』でも初平六年となっているらしいし、趙潁の役職的にも初平六年=興平二年(195年)であるのが正しいように思われる。
『華陽国志』編纂の際に参照されたと思われる『巴記』の時点で初平六年という表現であるというのが興味深い。
ちなみに『華陽国志』には興平という表現はわずかに一例しかない。
しかもそれは文の順序が少し違うものの表現がほぼ『三国志』の劉焉伝と一緒であり、それを引用した可能性がある。
興平という元号が出てくるのもそのためではなかろうか。
とはいえこの『華陽国志』だけでは益州非改元説はだいぶ弱い。
ただの間違いって可能性もあるのだが、最近それを補強する史料を発見した。
『隷釈』巻一、益州太守高眹脩周公礼殿記
漢初平五年倉龍甲戌…(後略)
益州南部の益州郡に建てられた碑文中に初平五年という表現が出てくるのである。
このように益州の史料においては初平五年や六年といった表現が出てくるのである。
わずかに二例しかないので、はっきりと興平を使わなかったとは言えないがその可能性もある程度ありそう。
劉焉が張魯に漢使を殺害させていたことで、興平改元が伝わらなかったのかもしれないし、伝わっていたけどあえて初平のままにしていたという可能性もある。まあ董卓死後は相当混乱してたからね、しょうがないね。
どうでもいいけどもしかしたら『華陽国志』に出てくる初平中という表現は初平元年から興平二年まで入ったりするのかも。