雲子春秋

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論文「曹魏軍制前史」

森本淳「曹魏軍制前史−曹操軍団拡大過程からみた一考察−」(中央大学『アジア史研究』22号、1998年3月)
この論文を読まずして曹魏は語れまい。そう思うほどに私が影響を受けた論文。
劉焉シリーズもここからの着想が非常に大きい。
著者の森本淳氏の夭逝が大変悔やまれます。
紹介を兼ねて論旨をまとめてみます。
なお、「」内は論文からの引用です。

第一節 起兵当初における任官

曹操の起兵当初は司馬として従った者が多い。
司馬は「将軍・中郎将・校尉の各級レヴェルの指揮官の下に設置される、当時の実戦部隊における最も基本的な統兵官」である。
司馬にはいくつか種類があり、千石の司馬は“太尉の如し”つまり「軍事行政を司る官」
また比千石の軍司馬は「主将の下にあって実際に部隊を指揮する将校」
そして別部司馬は「別働隊を率いるもの」であった。
他に副官として仮司馬、軍仮司馬がいた。


司馬より上級の校尉や都尉といった上級官が見られるようになるのは、青州兵と兗州の獲得の後。
司馬任官者が校尉等に昇りはじめるのである。
この昇進は「功績を挙げた結果」というより、「軍団の拡大の結果将帥たちの権限も増加し、「司馬」の官よりもより広範な権限を有する都尉・校尉の官に遷った」と考えるべきであるとする。
このときの校尉や都尉の兵は、曹操から与えられたもの、あるいは曹操の命による募兵であり、これらは「曹操郡内部より現れ、ともに成長していった人物である」という。

第二節 中郎将任官者

中郎将任官者はそれとは別系統であるという。
中郎将からスタートした人物に張遼、李典、李通、そして曹洪がいる。
彼らは「その配下に大規模な独自の軍団を擁していた」。
「李典は従父以来の私兵」、張遼呂布の敗残兵、また李通は他の軍閥から四征将軍号を送られるほどの兵力があった。
さらに、曹洪は一万近くの軍を率いていたため、起兵当初「曹洪のみが唯一「司馬」とならず鷹揚校尉となっ」た。


これらの四人が中郎将とされた理由は二つ。
①「独自に発展した集団においてはその将兵の連帯が強く、にわかにこれらの集団を解散させて吸収するには抵抗が強かった」
②「曹操軍が未だ規模が小さく、大規模な集団をきなり完全に吸収すると混乱を招くおそれがあった」


また中郎将の“持節”の性格により「その地の実際の統率者が自儘に振る舞うこと」に「正統性を付与」できた。
その点で「本来臨時の征討職に過ぎない将軍よりも適して」おり、「専殺権を有する」持節は「自立性の強い集団に対して(中略)集団内部の自治権を認めるという意味もあった」という。


これら中郎将は独立性を認められ、「外郭の武力集団として位置付け」られた。

第三節 軍団の拡大

袁紹への対抗のため、「指揮系統の再統一が行」われた。
官位は校尉や中郎将から裨将軍・偏将軍へと遷る。
裨将軍・偏将軍は「一軍の副将格」であり、「司空行車騎将軍曹操とその副将である偏将軍・裨将軍によって統一された指揮系統を持」った。
官渡以降「建安八年には行官*1としての雑号将軍が現れ、(中略)建安十二年に(中略)有力将帥たちも皆雑号将軍を与えられ、おそらくはこの時点で長史・司馬が置かれ、独立を果たした。」
曹操は節鉞および車騎将軍としての資格によってこれらの将帥を率いた。

第四節 別部司馬と領軍・護軍

起兵当初から別部司馬として功績をあげた夏侯淵曹仁は、夏侯淵が建安十年に典軍校尉となったほかは昇進が見られない。
「彼らは別部司馬の資格で」行官となっていた。
しかし、彼らは別部司馬として「他の将軍までをも指揮下に入れる」など「その権限が飛躍的に拡大されていた」。
森本氏は「これが後に制度化されて「都督」とな」ったとし、「魏の都督は後漢の将軍府における別部司馬の発展形態」との見方をされている。


護軍と領軍は曹操の直属軍を率いた。それは「他の将領が偏裨将軍に遷り始めたことに対応して曹操の直属軍もその独立性を深めた結果」置かれた。
建安十二年に中領軍・中護軍となり、属官として長史・司馬がおかれたのは、「他の諸将が(中略)偏将軍・裨将軍から独立した将軍へと遷ったと同時に、正式に曹操の直属軍(=「中軍」)の将帥として独立したこと」を示す。
ただし、その後都督制が確立すると「「中軍」の指令官としての地位は都督中外諸軍事に」遷る。

第五節 その後の展開

曹操が魏公、魏王になると「将帥たちは(中略)魏(公・王)国の将軍へとスライド」していく。
そして延康元年以降に魏の軍事体制が完成する。
曹魏初期は「四征将軍・都督となり得るのは基本的に曹氏・夏侯氏」という不文律があったとされるが、それはこの時期に確立されたという。


曹操死後わずか数ヶ月で魏の軍事体制が完成したことは、曹操の代で「すでに実質的には魏の軍事体制が整っていたことを示唆」する。

結語

多くの軍閥が従来の軍事制度からの脱却を試みる中にあって、曹操軍団は基本的に後漢の軍事体制に則ったものであった。
そこから「「漢臣」としての立場と正統性へのこだわり」を見いだすことができる。
とはいえ「権限の拡大された別部司馬や、「中軍」に連なる中領軍・中護軍」など「次代への架け橋となるもの」もあった。
氏は最後に「曹操の軍団は後漢と魏晋・六朝の新たな軍事制度との結節点、ないし転換点にあたるものであったといえよう。」との言葉で締めくくる。


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雲子の言葉

論文要旨って難しい。引用が多すぎたかもしれないです。また論旨を読み取れていない部分もあるかもしれません。
論の根拠など結構省いているので、考え方を参考にするためにはぜひ論文そのものを読んでほしいと思います。
この論文に付された有力将帥の官歴表も大変参考になります。

*1:正式な官ではなく、それ以下の官のものが上位の官を代行するということ