雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

文欽の乱と魏の諸王

奇跡!数百年ぶりの二日連続更新です。

ブログはいいから動画を早く更新しろと言われそうですが、本業は三国志ブロガーなので許してください…。

 

 

さて、怪異譚などを集めた『太平広記』に引く『集仙録』に次のような記述がある。

『太平広記』巻第六十一 所引『集仙録』成公智瓊魏濟北郡從事掾弦超。字義起。(中略)超後為濟北王門下掾,文欽作亂,魏明帝東征,諸王見移于鄴宮,宮屬亦隨監國西徙。鄴下狹窄,四吏共一小屋。(後略)

 文欽が反乱がおこると、諸王は鄴宮に移され、その属官たちも監国謁者に従い、鄴に移ることとなったらしい。

なお原文には、「魏の明帝が東征し」とあるが、文欽の乱の際には、曹叡は既にこの世にいない。

魏の明帝曹叡が東征したのは234年の合肥での呉との闘いであり、文欽の乱で東征したのは晋の景帝司馬師であり、時期か人物に誤りがあるのだろう。

怪異譚とはいえ、死んだ皇帝が東征したという怪異ではないと思う。

 

曹魏の諸王が鄴に移されるというのは、文欽の乱に先立つ251年の王凌の乱の時も起こっている。*1

王凌の乱には楚王の曹彪が関与していたという事情もあるだろう。

また、文欽の乱にあたっての、毌丘倹・文欽らの上表において、司馬師の罪の一つとして「魏の諸王公を鄴に集め、ことごとく誅殺しようとし、にわかに主君(曹芳)を廃位した」ことを挙げている。

 

司馬氏は王凌の乱や、曹芳の廃位など、重大案件の際には魏の諸王を鄴に集めていた。

魏では諸王などの宗室が冷遇されていた印象があるが、明帝曹叡治世の232年、皇室の藩屏とするための改善を行い、これまで県であった王の封国を、それよりも広大な郡に変更している。

この改正の詳細はちゃんと調べていないので、なんともいえないが、おそらくは王国の兵制などにも何らかの改革をしていたのかもしれない。

そのため、司馬氏に対する反乱に諸王が与したり、皇帝の廃位に対しての諸王による乱が起きれば一定の脅威となる可能性があり、それを恐れてこのような措置を行ったとも考えられる。

そして、この『集仙録』の記述を信じるのであれば文欽の乱においてもその措置が取られていたようだ。 

 

怪異譚の内容についてはこれまで全く触れていなかったので一応あらすじだけ書いておくと、これは弦超という地方官吏と成公智瓊という神女との恋愛的な話で、鄴に移されて、4人部屋になったら、神女との恋がみんなにバレちゃった♡というものなのだが、それについてはそのうちブログ記事にもしたいと思う。

長いので数十年後くらいになると思うけど。

ちなみに成公智瓊の話は捜神記にも収録されているのだが、今回取り上げた部分はカットされている。

 

怪異譚にある記述をどこまで信じるべきかはわからないが、一定程度の事実を下敷きに作られた話だとすれば、今回取り上げた部分は事実を含んでいるのではなかろうか。

 

ちなみに、同時代の張華が、この怪異譚をもとに『神女賦』を詠んでおり、その序文で、弦超の上司にあたる明察清信の人、劉長史(誰?)も言っているし、この話は弦超の淫惑夢想(気に入った表現なので原文ママ)ではないことは明らかだと述べている。*2

『博物誌』で有名な張華先生も信じているし、我々も信じるべきではないだろうか。(権威主義

 

 

 

 

*1:『晋書』巻一 宣帝紀「悉く魏の諸王公を録し鄴に置き、有司に命じて監察し、交關するを得ざりしむ。」

*2:序文全文:「世之言神仙者多矣,然未之或驗。如弦氏之歸。則近信而有徵者。甘露中,河濟間往來京師者。頗說其事。聞之常以鬼魅之妖耳。及遊東土。論者洋洋,異人同辭,猶以流俗小人,好傳浮偽之事,直謂訛謠,未遑考核。會見濟北劉長史,其人明察清信之士也。親見義起,受其所言,讀其文章,見其衣服贈遺之物,自非義起凡下陋才所能搆合也。又推問左右知識之者,云:「當神女之來,咸聞香薰之氣、言語之聲。世之言神仙者多矣,然未之或驗。如弦氏之歸。則近信而有徵者。甘露中,河濟間往來京師者。頗說其事。聞之常以鬼魅之妖耳。及遊東土。論者洋洋,異人同辭,猶以流俗小人,好傳浮偽之事,直謂訛謠,未遑考核。會見濟北劉長史,其人明察清信之士也。親見義起,受其所言,讀其文章,見其衣服贈遺之物,自非義起凡下陋才所能搆合也。又推問左右知識之者,云:「當神女之來,咸聞香薰之氣、言語之聲。」此即非義起淫惑夢想明矣。又人見義起強甚,雨行大澤中而不沾濡,益怪之。鬼魅之近人也,無不羸病損瘦。今義起平安無恙,而與神人飲燕寢處,縱情兼慾,豈不異哉。」