守太守
漢代、郡県の功曹以下は郡太守、県令が選ぶ。
一方で、県の令・長・丞・尉、郡の太守・丞といった高官は朝廷による任命で、郎官*1を経た者しかなれなかったといわれる。
しかし、濱口重國氏は漢碑のなかにみえる守○○令などの記述を研究し、本来朝廷による任命であるべき県令を郡太守が任命しているケースが多くあったことを指摘している*2。
「守」とは本来その官位になれる資格をもたない者がその役職を兼ねるという意味があり、
守○○令とは県令等になる資格をもたない郡の役人が県令を兼職したことを表すという。*3
さて、後漢末にはなんと守太守がいた。
『三国志』巻三十八 許靖伝 注引『益州耆旧伝』
(王)商字文表,廣漢人,以才學稱,聲問著於州里。劉璋辟為治中從事。(中略)璋以商為蜀郡太守。
『益州耆旧伝』によれば、王商は益州刺史劉璋によって治中従事(州の役人)になり、その後蜀郡太守に任じられたという。
『華陽国志』巻十中 広漢士女讃
王商,字文表,廣漢人也。博學多聞。州牧劉焉辟為治中。試守蜀郡(太守)。
『華陽国志』をみてみると、治中従事となった王商が「試守蜀郡(太守)」となったという。
「試守」にはわずかに異なる意味もあるのだが、*4ここでは「守」と同じと見ていいと思う。
漢代通して、県令を守した場合はいくつもあったが、太守を守している例は見ない*5
しかし、後漢末の戦乱期にはこのように刺史が太守を任命した例がみられるのだ。
太守が県令を任命する守官制度が拡大解釈されているように思われる。
おそらく他の群雄もこの守官制度を拡大解釈して太守などを任命していた可能性もあるのではないだろうか。