劉焉の益州支配そのいち(ちょっと修正)
前置き
サークルで使ったものの流用。
どうでもいいことだけれどそのときのタイトルは
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
劉 焉 と 賈 龍
〜最 後 の 戦 い〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
だった。
前置きはこれくらいにしてはじめる。
牧設置
劉焉は中平五年(188)州牧の設置を建議する。
刺史は州内の郡の監察、一方の牧は州の行政を担当する。*1
牧は刺史よりも権限が大きい。*2
余談だが、使ったレジュメでは「“僕”は刺史より権限が大きい」との誤字によってラノベタイトルのごとくなっていたのであった。
建議が容れられ、劉焉は監軍使者領益州牧となる。
このとき益州出身の人物が二人劉焉に従う
・董扶:広漢郡の人、益州の学問の大家で侍中となっていたが、蜀郡西部属国都尉となることを求め、劉焉に従う。
・趙韙:巴西郡の人。大倉令となっていたが官を捨て劉焉に従う。劉焉死後に劉璋の擁立に貢献するが東州兵との対立から反乱、敗死。華陽国志では王商が劉焉に推薦したとあり、劉焉に所属した経緯はよくわからない。
益州の状況
益州は当時大変乱れていた。
①刺史郤倹による税の濫発
※劉焉の監軍使者としての任務は郤倹の断罪にあった。
②漢中、巴での五斗米道、張脩らの宗教勢力の台頭
※次回詳述
③自称黄巾の馬相、趙祇の乱
・綿竹令李升・益州刺史郤倹の殺害(劉焉が断罪する前に賊に断罪されてしまった。)
・蜀郡・広漢郡・犍為郡を破壊
・巴郡太守趙部殺害
劉焉は道路が通じず荊州で待機していた。