安漢の龔氏
『三国志』巻四十五 楊戯伝に引く『季漢輔臣賛』
(龔)德緒名祿,巴西安漢人也。先主定益州,為郡從事牙門將。建興三年,為越嶲太守,隨丞相亮南征,為蠻夷所害,時年三十一。弟衡,景耀中為領軍。
龔禄、字徳緒、巴西安漢の人。劉備が益州を平定すると、郡の従事、牙門将となった。
建興三年に越嶲太守となり、諸葛亮の南征に従い、異民族に殺害された。三十一歳だった。
弟の龔衡は景耀年間に領軍となった。
さて『華陽国志』には龔祿の父について次のようにある。
『華陽国志』巻十二序志 益梁寧三州先漢以來士女目録
越巂太守龔祿,字德緒。(安漢人。父諶,犍為太守,見《巴紀》。)
父龔諶は犍為太守となったという。
その龔諶であるが、『華陽国志』の別な箇所に登場する。
龔諶は張飛が巴西を攻めた際、巴西の功曹*1だったが投降したという。
さらに、龔祿の弟についても書かれている。
『華陽国志』巻十二序志 益梁寧三州先漢以來士女目録
鎮軍將軍龔蕤,字德光。(祿弟也。)
龔祿の弟龔蕤は字徳光、巨人ファン。鎮軍将軍とある。
『季漢輔臣賛』では弟は龔衡で領軍だったとしている。
名前ばかりか、官職まで違う。
ただ、『華陽国志』の注では、『季漢輔臣賛』に載るくらいの人ならここにも載るはずだという理由で彼らを同人としている。
確かに、鎮と領は字形が何となく似ている気がする。
名前も3メートルくらい離れたら同じ字に見えるし、同人ってことでいいや。
で、このように蜀漢で活躍した巴西安漢の龔氏であるが、蜀地方の異民族、板楯蛮の出身であるように思われる。
『後漢書』列伝巻七十六 板楯蠻夷
至高祖為漢王,發夷人還伐三秦。秦地既定,乃遣還巴中,復其渠帥羅、朴、督、鄂、度、夕、龔七姓,不輸租賦,餘戶乃歲入賨錢,口四十。世號為板楯蠻夷。
巴郡*2の板楯蛮の首領は七族あった。
羅氏、朴氏、督氏、鄂氏、度氏、夕氏、そして龔氏だ。
王平も板楯蛮出身説があるし、蜀漢政権って思ってる以上に異民族出身者が多いのかもしれない。
爨習もあきらか異民族だし、それと連なる李恢ももしかして……。
正直、異民族ってのが何なのかわからない。当時の人たちはそういうのあんまり意識してなかったのかも。
以下すっげーどーでもいい余談。
三国志演義で、高定の部将に顎煥というオリジナル武将がいたけど、板楯蛮の首領に鄂という姓があったことをふまえた創作だったらすごいと思う。
あるいは顎煥は実在していたが、その事跡を記した書物は全て散佚してしまい、ただ三国志演義にのみ残ったという可能性。
とりあえず顎煥は板楯蛮ってことで。