李勝の碑
司馬懿の耄碌演技に騙された李勝。
太守として治績があったらしく滎陽郡には彼を称えた祠が存在していたという。
『水経注疏』巻七 済水一
魏正始三年、歲在甲子、被癸丑詔書、割河南郡自鞏縣・闕以東、創建滎陽郡、并戶二萬五千。以南郷筑陽郷亭侯李勝字公昭、為郡守、故原武典農校尉、政有遺惠、民為立祠于城北五里、號曰李君祠。廟前有石蹠、蹠上有石的。石的銘具存。其銘曰:百族欣戴、咸推厥誠、今猶祀禱焉。
正始三年、李勝は初代滎陽太守として赴任。
原武典農都尉*1から遷ったようだ。
祠の銘文には
「百族欣戴、咸推厥誠(民は喜んで支持し、みなその誠を推す)*2」
とあった。
『三国志』巻二十一、傅嘏伝注引『傅子』によると、
李勝は河南尹であったときに法を緩めて一時の名声を得たとある。
おそらく滎陽でもこのような寛治の方針で統治したため、祠とか作るくらいの金持ちたちに人気があったのだろう。